短編:小市民お姉さん


 エレベーターのボタンを押し、ドアが閉じる。エレベーターはゆっくりと上昇をはじめ、背後のガラス張りの景色が移り変わっていく。私は何も考えてはいなかった。常に疲れていた。

 目的の階に着くと迷わず通路を歩いていく。慣れているほどではないけど驚くほど似通ったビルばかりだから、歩きやすい低いヒールのレザーパンプスで出歩くうちに勘所というか、仕組みのようなものを覚えてしまった。
 ビジネスホテルの一室の前で立ち止まり、デバイスを確認する。軽くスーツを払って、ノックする。二回じゃない、トン、トン、トン、くだらない三回ノック…後天的習性、20代で叩き込まれるビジネス仕草は現代社会において人間と認められるための一番下の足きりラインだ…
 内側からノブが回る。現実に焦点を戻す。ドアが開く前に口元にほどよい微笑を浮かべるところまでの手続き的作業が実行される。
 「時間ぴったりですね」
 社交的な微笑みを浮かべるミドルエイジの女性が顔を出す。「どうぞお入りください」そういうと私がドアを抑えるのを確認して部屋の奥に引っ込む。
 「今日は混んでいましたか」
 女性が問いかける。あくまでビジネスライクな距離感。
 「いえ、この時間ですので比較的空いていました。お待たせしてないといいのですが」
 「気にしないで。今時分、男性が窓口になると面倒なのよ」
 「お気遣いありがとうございます。そうだと、早めにお渡ししたほうがよろしそうですね」
 ブリーフケースと同じサイズのトートバッグを肩から降ろす。会社から持たされた厚みのあるA4サイズの封筒を取り出し中身を確認する。
 「こちらですね。新興企業も少し入っているようで」
 封筒を受け取ると女性はベッドに腰掛け、膝に資料を広げて熱心に確認し始めた。ときおり下唇に指を添えて何か考え込む。
 「そう。」一通り資料を確認するとそう言って、
 「ありがとうございます。ではこちら上に共有しておきます。近日中にそちらにも連絡が行くと思いますから、よろしくお願いしますね」
 「はい。では、失礼させていただきます」軽く礼をしてカバンを持ちなおす。「そのブローチ、素敵ですね。TUMIKIの新作じゃないですか?」緊張感を和らげるために少し話題を変える。ブローチには大粒の真珠と枝をモチーフにしたプラチナの地金が使われて、枝の先々に小粒の真珠があしらわれている。
 「そうね。なかなかいいでしょ?では、またお会いしましょう」
 女性も軽く話を合わせてにこやかに別れを告げる。ドアが閉まる。午後のビジネスホテルの特有の静けさが後に残された。また同じ道を引き返しながら、ビジネス仕草の妥当性についていつまでも考え込んでいた。フロントを通り過ぎ、通りに出る。外は夏だった。

 「○○さんはどうだった?」会社に帰ると上司に話しかけられる。
 「あの方、あまり話さない方のようでしたが資料にはしっかり目を通されていました」
 「そうかー、ま、ありがとね。」
 自分のデスクに戻って、書類仕事を再開する。この手の仕事は終わらないようにできているし、終わらせれば他人の分まで降りかかる。
 
 自分がなにか汚れ仕事の一つをやっていることは前から気づいていた。でも上司もその上も、明言はしない。ただこの誰にも言うべきでないことを察する能力がある下っ端というのが誰かに評価されていて、数年の仕事のうち特定の事業部の特定の数人が直属の上司になり続けていた。セクハラということもないが、距離感は近く、口外すべきでない仕事の時には無言の圧力をかけてくる。それを理解してるかどうかを試すために内容のない確認を繰り返し、理解してることがわかれば特に過剰に関わってくることはない。

 簡単に言えば、談合の書類作成と受け渡しをやらされているのは明白だった。参照データも完成データも全て出来上がり次第回収され、データもリモート管理で消されてしまう。受け渡し書類はページ抜けの確認しかしていないが、いくつかの書類に分散されて一つの書類が漏れていても問題がないように一部一部が構成されている。それでも私が信用されていなければそのすべてをコピー、ストックして、その結果として全体像が把握できてしまうのは確実だから、私は酷くもろい仕組みの中に組み込まれている。

 誰か管理職の愛人とかそういうことも一切ない。むしろ女として手を出すことが仕組みを不安定にするために、わざわざ魅力の薄い女を選んでいるようだ。そして何より彼らは大きな勘違いをしている。私は誰にも言ってはいけないことを察することも、表面上、約束を守ることもできるが、それをできるだけ高値で売る方法を見つけることもできるのだ。

 SNSや海外の匿名掲示板を見ていると、いろんな情報に需要があることがわかる。特に共産主義圏の政府に近い人間は、日本の一等地にある不動産や建築にまあまあの興味を示す。どう利用するのかはわからないが、利用価値があるのだろう。うちの会社は本社ビルが自社所有で極めて地価が高い都会にある。このあたりがウリであろう。株式の時価総額も同セクターのトップ会社に比べれば数分の一で一定の財力があれば発言力も持ちやすそうだ。そして、そこに強請りのネタを提供してやるわけだ…

 そこで私は考えることをやめた。単に自分にメリットが薄いと気づいてしまったからだ。強請りのネタが欲しい奴が、大金を払って一般人の一人から買うわけがない。お得意の強請りを私にも使うだろう…情報はただでカツアゲされてしまう。カツアゲされないようにするには匿名性を極めるとか、フロントになってくれる組織に売るとかになるが、それも労力に見合った報酬があるとは考えにくい。ここまでして情報を売りたいのは復讐目的か、快楽犯だけであろう。動画サイトを開いて、ゲーム実況をかける。賢くない小学生にもわかるように編集された内容に段々頭が悪くなっていくのを感じて、次第に眠くなっていく。

 上はこういうところまで見抜いているから、私に汚れ仕事をやらせるのだろう。あーあ、どうにかうまい汁を吸えないかなあ…そういうことを考えながら私は目をつむった。その日見た夢はマフィアに散々脅される夢であった。

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