「嫌われる勇気」という言葉に違和感
今日の記事にはガッツリ反対意見もあると思います。
なんかよく聞く言葉として
「嫌われる勇気」
「愛の鞭」
みたいな言葉があって、
要は、
「指導者側が生徒たちのことを想って厳しい指導をする。その結果嫌われても良いから生徒に良い人間に育って欲しい。」
そんな考え方からくる言葉だと思います。
たしかにこの考え方ってめちゃくちゃ良い面がいっぱいあります。
「あの時先生が厳しく叱ってくれたからぐれずに真っ当な道に進むことができた」
「厳しく指導してくれたおかげでこのチームが強くなれた」
そうやって、大人になってから厳しく指導されたことを感謝する場合も多いと思います。
これは本当に良い話だなと思います。
ただ一方で、
「嫌われ勇気」という言葉に違和感を覚えています。
たしかに厳しく指導された結果
強豪校として全国的に活躍できたかもしれません。
ただひたすら厳しい言葉をかけ続けて
しんどい練習ばかりさせて、
生徒たちが自ら「こういう練習がしたい」と思考する間もなく指導側がひたすら練習させる。
このような環境で、たとえ全国大会で活躍できたとしても、それが終わってしまった時に
将来的に
選手たちは自分で考えるということができない、
言われたことだけをこなす人間になってしまうという側面もあると考えています。
本当に大切なのは、
選手一人一人と対話しながら、一人一人の声を汲み取って、選手たちがどんなチームを目指したいのかを自ら考えられる環境作りが大切なんだと思います。
短い目でみて、
「全国大会に連れていく」
という目的ではなく、
選手の将来も考えてあげることが大切なんじゃないかなと。
ただこれは本当に時間のかかる作業です。
例えば学校の先生が部活動の顧問をされていた場合、
普通の授業もあるし
選手一人一人の意見を聞いている暇もない。
しかし、選手には全国大会を経験してもらって、
一生に残る経験をしてほしい。
そういった時間のない指導者側の愛から、
「嫌われる勇気」
という言葉が生まれたんじゃないかなと。
だから僕は、学校の部活現場を変えたいとも考えたりもしていました。
時間と人手があれば、ゆっくり選手達と向き合う時間も作れる。
スポーツを教えたい人と、部活動教育に悩む先生達を繋ぐ架け橋のようなものができればと考えたりもしています。