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男気!隆家!(2) 反骨


🌸🌸🌸 漢!隆家 道長様の言訳 🌸🌸🌸

🐥赦されて帰京なさってからもいろいろおありなのよね。
🐥何年かは冷や飯というか正四位下相当の兵部卿なんかでいらしたから、賀茂の御行列では御車がだいぶ後ろの方だったらしいのよ。
🐥道長様は、それで、わざわざ御自分の御車にお呼びになって、御処分は帝の御意向で、自分がしたことではない、と言い訳なさったんですって?
🐥ええ?
🐥へええ。。
🐥まだ彰子様の二の宮様もお生まれでなくて、一の宮敦康親王様を擁する中関白家の御声望を無視できないとお思いになっていらしたということもおありなのかもしれないわ。
🐥敦康様って、定子様がお産みになった親王様ね?

🌸🌸🌸 漢!隆家 追従ぶかき老い狐かな 🌸🌸🌸

🐥彰子様の皇子様がお生まれになった後では、一気に事情が変わるわねえ。。

🐥賀茂祭の御見物の折に、道長様の御桟敷の前を、内親王選子様の御輿がお通りになった時のことよ。
🐥大斎院様ね。

大斎院 選子内親王

🐥道長様は、御桟敷で、彰子様の幼い親王様方を御膝に乗せてお見せになって、大斎院様に、「この宮達を御覧下さい」と申し上げたのよね。
🐥二の宮様は3歳で立太子なさったのではない?
🐥そうしたら、お祖父様がお気軽にお膝にお乗せになることなんかおできにならなくなるのではないのかしら。
🐥それなら、三の宮様がお生まれになった後で、遅くとも二の宮様が3歳になられるまでのことということになるのかしら。
🐥それなら隆家様は、29歳から32歳の間、ということかしらね。

🐥選子様は、道長様に、お返事の文をお返しになる代わりに、御輿の帳から赤い扇をお見せになって「拝見しましたよ」という合図となさったんですってね。
🐥それで、人々は選子様の当意即妙を称えたの。
🐥でも、隆家様だけは、「追従ぶかき老い狐かな」と蔑まれたんですってよ。
🐥若気の至りという御齢でもないのにね。
🐥さがな者のままでいらしたということなのかしら。

🌸🌸🌸 漢!隆家 娍子様の皇后宮大夫 🌸🌸🌸

火中の栗を拾う人

🐥33歳の時には、道長様への御遠慮からどなたもお引き受けにならない三条帝の皇后娍子様の皇后宮大夫をお引き受けになるのよね。

🐥道長様は、御自分の姫君の妍子様を三条の帝の中宮に押し込まれるので、済時様の娍子様を皇后に押し上げ申し上げるのよね。
🐥それでは、娍子様と皇子方の御世話に名乗りを挙げる方はいらっしゃらないかもしれないわねえ、確かに。

🐥隆家様、優しいヤンキー?

🐥意外に歌詠みでいらしたりするみたいだし、情に篤い方なのでしょうね。
🐥道長様のごり押しの妍子様の中宮立后に押されがちだったけれど、これに対して三条の帝が、娍子様の皇后立后で対抗なさった、ということなのかしら。
🐥娍子様の立后の日、道長様の嫌がらせで、儀式に参列なさったのは、実資様と実資様の実の弟君の懐平様と隆家様だけだったんですって。
🐥隆家様、、そんなことされちゃ、燃えちゃいそうね。

🐥実資様の筋の通し方も見過ごしがたいわ。
🐥あら、実資様贔屓?
🐥実資様と隆家様は、御屋敷がお向かいで、20もお齢が違うのに、実資様は隆家様とお気が合われたのか、仲良くなさって可愛がっていらしたそうよ。
🐥🐥へえ。

🐥二后並立ラッシュ時代よね。

🐥伊周様は、あの事件の後の御対処がお見苦しくて、何か失墜されてしまわれたわよね。
🐥一方隆家様は、武闘派で無頼漢のようでいらした直情径行の誇り高さのまま、義を見てせざるは勇無きなり、っていうの?
🐥🐥🐥なんだか素敵😍💕💕

🐥五十日祝の宴でも、道長様は隆家様に御遠慮なさってらしたみたいだけれど、

🐥この五十日祝の主役でいらした彰子様の敦成親王様がお生まれになるまでは、定子様の敦康親王様のお近しい保護者として、宮様の叔父君の隆家様に気を遣っていらしたんでしょうしね。
🐥中関白家に期待する世間の声も決して小さくはなかったでしょうし。
🐥隆家様御自身の御性格からしても、何か端倪すべからざるところがおありだったのでしょうね。
🐥賀茂祭で御自分の御車にお呼びになった時からずっと同じ関係性のような気がしない?


                       眞斗通つぐ美

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