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賢木② 六条御息所のモデル?斎宮女御 徽子女王 他 ~賢木の巻より 


🌷 六条御息所の別れの決意に関する動画

youtube動画です。


🌷動画の内容

元々夜離れのところに、
葵上を取り殺した人として決定的に源氏の足が遠のいてしまっていた六条御息所なのですが、
斎宮に卜定された姫君に随行して伊勢に下向すると聞いて、源氏の浮気心が疼き始めます。

もはや愛も冷め果てていそうなのに、去られるとなると惜しくなって、甘い言葉を惜しみなく注ぎ始める…
ジャズのスタンダードナンバー『It's a Sin to Tell a Lie 嘘は罪』なんかを、つい思い出してしまいます。

🌷IT'S A SIN TO TELL A LIE

Be sure it's true
When you say "I love you" it's a sin to tell a lie
Millions of hearts have been broken Just because one word was spoken

I love you, yes, I do, I love you
If you break my heart, I'll die So be sure it's a sin to tell a lie
When you say "I love you" it's a sin, it's a sin to tell a lie

嘘言ったら死んじゃうから、とか言う方も言う方か?
はて😃

🌷伊勢下向の日程

下向前の潔斎の野宮を訪問しての愁嘆場が9月7日です。
逢ってみればまた心が揺れないではない御息所ですが、伊勢への群行の出発は16日に迫っていて、役所も動いている公事の流れに逆らえないのを幸いとして、
自分から源氏に、はっきりと別れを告げられることを、御息所は喜ぼうとしています。

下向の日は迫っています。

🌷六条御息所のモデル

斎宮の伊勢下向に随行した母君というエピソードのモデルと言われているのが、斎宮女御と呼ばれる徽子女王だそうです。

徽子女王 三十六歌仙図より

(📌という漢字は、細やかで美しいというような意味だそうです。読みは、キ、よ(い)。)

斎宮規子内親王と共に伊勢への群行に発たれたのが 9月16日 であるという史実も、斎宮女御 徽子女王 が、六条御息所のモデルだとする根拠になっているようです。

🌷徽子女王の出自

徽子女王の父宮は醍醐帝の第四皇子重明親王
重明親王の母更衣は、源融の次男の姫君です。
重明親王は、渤海使との会見にロシアンセーブルを8枚羽織って度肝を抜いたなど、エピソードの多い方で、
末摘花のモデルかもという青常君の父君でもある方です。

徽子女王は、朱雀帝の御代の斎宮を退下されてから、村上帝の女御となられ、規子内親王を生されましたが。

村上帝の後宮では、
基経、忠平、師輔という本流の安子中宮が威勢を振るい、

同じ後宮の宣耀殿芳子女御は、御身が車に乗られても髪はまだ母屋の柱にあり、古今集全巻暗記しておられるという寵姫です。
この方には、安子中宮が嫉妬され、隣の部屋から土器の欠片を投げ付けられたという逸話もあります。

しかし、村上帝徽子斎宮女御への御寵愛は決して疎かではなく、入内を求める御歌の遣り取りも細やかなものだったそうです。

🌷大層高貴で優雅な人 by 村上帝

琴と和歌に秀でた方で、村上帝の足が遠のき、久しぶりのお渡りがあった時に、徽子女御は、
秋の日の あやしきほどの夕暮れに 荻吹く風の 音ぞ聞こゆる
と琴を弾きながら口ずさんでおられて、帝は深く御心を動かされたと大鏡にあります。

🌷里居がちの理由

しかし、父重明親王亡き後、有力な兄弟も皇子も持たず、有力な後見を欠いている境遇に、
更に、中宮安子の威勢のみならず、父重明親王の継室であった、安子の同母妹登子の入内があり、
徽子女御は、ますます里居がちになられたようです。

規子内親王が伊勢に下向される時には、父重明親王も村上帝も既に亡く、都に希望がなくなっていたことも、六条御息所を思わせます。

🌷秋好中宮

規子内親王は、斎宮退下後、母徽子女王と相次いでお隠れになります。

源氏物語では、
六条御息所は、姫君の斎宮退下後亡くなりますが、

姫君は、斎宮女御として、藤壺女御の皇子たる冷泉帝に入内されます。
姫君が相続されたのか、源氏に託されたのか、
六条の土地には広大な六条院が源氏によって造営され、
六条院の四季の町のうち、秋の町を里として、御息所の姫君は立后されて、秋好中宮と呼ばれることになります。

🌷大斎院選子

ちなみに、同じ醍醐帝の御孫で、円融帝から後一条帝の御代まで5代に渡り賀茂斎院をお努めになり大斎院と呼ばれた選子内親王とも、徽子女王は親交がおありだったそうです。

結婚を許されず神にお仕えする似た御身分とはいえ、
都に近い賀茂の斎院と都を遠く離れた伊勢の斎宮では、
やはり伊勢の斎宮の方が、有力な後見を欠いておられることが多いようです。

道長と目立たぬように品のいい遣り取りを交わしたと褒めそやされた大斎院選子を、
刀伊の入寇を打ち破った隆家は、「追従ぶかき老い狐かな」と言い捨てた、というエピソードもありますね。

📌 上の記事より引用。
🐥賀茂祭の御見物の折に、道長様の御桟敷の前を、内親王選子様の御輿がお通りになった時のことよ。
🐥大斎院様ね。

🐥道長様は、御桟敷で、彰子様の幼い親王様方を御膝に乗せてお見せになって、大斎院様に、「この宮達を御覧下さい」と申し上げたのよね。
🐥二の宮様は3歳で立太子なさったのではない?
🐥そうしたら、お祖父様がお気軽にお膝にお乗せになることなんかおできにならなくなるのではないのかしら。
🐥それなら、三の宮様がお生まれになった後で、遅くとも二の宮様が3歳になられるまでのことということになるのかしら。
🐥それなら隆家様は、29歳から32歳の間、ということかしらね。

🐥選子様は、道長様に、お返事の文をお返しになる代わりに、御輿の帳から赤い扇をお見せになって「拝見しましたよ」という合図となさったんですってね。
🐥それで、人々は選子様の当意即妙を称えたの。
🐥でも、隆家様だけは、「追従ぶかき老い狐かな」と蔑まれたんですってよ。
🐥若気の至りという御齢でもないのにね。
🐥さがな者のままでいらしたということなのかしら。

                        眞斗通つぐ美

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