公の大事
「公私」という言葉があります。
パブリックとプライベートですが、近年、この境が軽んじられる傾向が強いように思えます。
これは、欧米のキリスト教的な価値観による影響と、共産圏からの様々な工作によるものだと考えます。
大元から言うと、キリスト教では「唯一神と故人の契約」であり社会的発展は「神の意思に沿ったもの」なので社会活動は「正義」であり「善」なのだという設定です。
その派生であるプロテスタント的な資本主義では「優秀な個人が社会を牽引する」のは「正義」かつ「善」なので、その富を独占するのは「当然の権利」で、優秀であるから慈善活動をしてあげる、となります。
さらにその派生物である共産圏からの工作では、共産主義や社会主義を実現することこそ「人類の理想」であるから、資本主義社会の様々な価値観を破壊し、極端な場合はテロまでもが、その為の手段として「正義」とされ「善」となります。
故に、バカな恋愛脳女性を利用したり、後先を考えない目の前の偽善に走る若者らを利用したりして、操ってきました。
こうした価値観が錯綜した結果、現代日本では、アカの手先が人権問題等を掲げて公金を横領し、国会や痴呆議会では訳の分からない問答と居眠りをする連中の為に税金が浪費され、結果、馬鹿げた法案が罷り通り、
民間では未だに地上げなど恥知らずな蛮行が罷り通ったりしてます。
個人的には、先ずはお上が威を正して、居眠りとかのフザケタ連中を処刑すべきと考えますが、戦国の世ではないので、それは無理な話です。
江戸時代ならば、例えば大名行列などの公の場での非礼はその場で切り捨てられる事もありました。
明治以降の西洋化で、日本からは、この「公」という認識が徐々に削られて現状に至ります。
では、この「公私の別」とは何なのか。
そもそも、人類種は群で活動する生物なので、代々、各々が群を形成してその文化を継承してきました。
その過程で、その地域性歴史自然環境などから様々な世界観を考えだし、長い年月を掛けて多くの人々によって氏族や民族としての宗教が形成されました。
一方、政治の事は、突き詰めるならばバランス調整に過ぎません。
大衆の意向、経済、外交、治安問題などを現実的に解決するだけの話です。
能力的な余裕があれば、未来を視野に入れた中長期的なバランスまで見るべきですが、長が凡庸か無能ならば、その場しのぎの自転車操業しか出来ず、近現代の日本では、残念ながら。
そして、大衆の意向、そして未来への視点は、恐らくは認められる方は少ないでしょうが、実は宗教が担ってきました。
これはキリスト教以前の話で、キリスト教以後はこれら宗教の派生物、劣化、改悪されたキリスト教などからの垂れ流された毒によって、となります。
共産主義とか、自由主義とか、更に下劣なものではカルトなどもです。
LGBT法とか、チャイナスクールとか、国家神道なども此だと思ってます。
選挙の為に統一教会とか創価とかが裏で動いてるとか、サヨクな新聞などによる世論操作なんて事もあります。
より個人的なスケールですと、言霊信仰とか判官贔屓なんてのも、民族としての宗教観だと考えます。
失言を忌み嫌うのも、弱者を守りたいと思うのも、御天道様に御先祖様に恥じない在り方を望むからであり、そうした教育を受けていない、又はそれに価値を見出だせない人は、失言を利用したり、虚言を弄して弱者の代表面で煽り儲ける訳です。
つまり、社会としての共通の価値観が、廃れつつある訳であり、そこにキリスト教意向の毒が蔓延して社会的な共通認識が混迷したという事であり、即ち、これが「公」と「私」の境が薄れたという話です。
現代では、「公」が法的規制に変わりつつあり、前例主義を利用した法的解釈に詳しいものが「私」の立場で恣にしがちに見えます。
詰まるところは運用するのは個々人なので。
要は何を「正義」、正しい義とするかであり、これはキリスト教系統の毒に侵された現代では統一化は不可能だと思います。
それは欧米や共産諸国を見れば明白でしょう。
未だにキリスト教的な価値観で欧米を目指す方々が主流ですが。
構造的に、先にも挙げたキリスト教由来の毒では無理な話だと思います。
「老害は自分達の世代しか考えていない」などとも言われますが、しかし、実態としては目くそが鼻くそを笑うような話でしょう。
似たような価値観での階級闘争でしかありません。
仏教では「縁起」という教えを説き、また「相依性」を説きます。
要は須く関連していて、本性とか本質とかが無いから中道が肝要という話ですが、残念ながら現状ではキリスト教系統の毒、某かを絶対的主軸、正義とする考えが乱立している訳ですね。
これは疑似科学信者も同様で、例えば物理法則があって万物が此に従っている、と信じている方も多いように見受けられます。
「分かりやすく説明しているだけ」との反論もあるでしょうが、人の脳の機能から言うと、こうした例えはそのまま受け入れるのが主流で、つまり、例えとして使っているつもりでも脳は誤認します。
その方が簡易なので。
この辺の話は、ある程度、伝統的宗教、但しキリスト教等を除く、で修養すれば体感出来る話でしょう。
こうした精神的修養は、江戸以前なら、ある程度の知識階級はそれなりに行っていました。
戦国の世に禅が流行ったのも利があると思われたからでしょう。
江戸時代では朱子学などが奨励され、武士道なども神道と儒教的な価値観の延長となります。
邑が多く集まり国となり、その長一族が世襲となり家とか一族の存続が命題となり、これに宗教が利用されて宗教団体が政治権力に関わり、
そしてキリスト教以降は支配の為のエセ宗教団体が乱立して、挙げ句の果ては政治がエセ宗教団体の妄執に手を貸す。
馬鹿げた話ですが、自分には其のような世情に見えてます。
国として最も公の場であるはずの議会で、罵声や意味不明な答弁や居眠りが繰り返されるというのは、つまり日本国全体がその程度という話でしょう。
そして、子供というのは環境から学習しますので、親や学校、そして国家のリーダーなどからも学習して、自分の群れがどのようなものか学びます。
なので、我々も、自覚はないですが、「日本国とはこんなものなのだ」と学習しているのだと思われます。
そして、次代へと縁起してきた訳です。
つまり環境に適応してきた訳です。
しかしながら、現在の日本国では、国会議員を筆頭に普通の転職経験の無い勤め人達等は、この社会構造が絶対磐石というのが常識でしょう。
だから居眠りとか下受けを見下したり出来る訳です。
故に、環境の激変に対しては、我々日本人は俗に言われるほど有能では無いと思います。
民主の総理の時にあった原発事故のように、国家転覆を計画し外患誘致しようとしたテロリスト達をカルトの犯罪者としたように、隣国が日本国領土を不法占拠し国民が拉致されたままであるように。
これらの大元は、要するに「公」が廃れたからだ、という話でした。