英語での罵詈雑言とキリスト教についての戯言
サノバビッチ、バスタード。
これは米国で下品な言葉とされますが、日本人からすると意味不明な言葉かと思います。
御存知の方も多いでしょうが、これらはキリスト教徒として、言われたら不快になる言葉だそうです。
逆に言うと、キリスト教徒としてこうした状態が禁止されてると言えます。
順番に書きますと、
「サノバビッチ」とは、キリスト教で売春が禁止されていたから、その売春婦の子供という罵倒であり、
「バスタード」は、婚外性行が禁止されていたので、私生児も差別されたから、となります。
しかし、これらの言葉が広まっている背景を考えますと、キリスト教というのが建前としての宗教であり、それを揶揄した罵倒が広まったのではないかと、自分は思います。
例えば江戸時代なら、武士階級では日本化された儒教が常識となってましたが、少なくとも武士同士ならば、相手の忠義を揶揄するような言葉は、刀を抜いて切りかかるのと同じ事だったかと思います。
これが町人や農民などならば、忠孝という意味は知っていても、生活があるので、儒教的な価値観は二の次となり、博徒などなら「だから何だ」という話かと思います。
いわゆる「建前」という事ですが、儒教ならば忠孝となるものが、何故キリスト教文化の英語では、あのような性的な話になるのか。
現代の日本語ですと、「糞○○」とか「キチガイ」などが一般的罵倒かと思いますが、これは異常な状態であるケガレ、つまり神道に由来するものかと思います。
ならば、キリスト教でケガレに相当する忌み事なのかというと、そうは思えません。
キリスト教の忌み事は悪魔となる筈です。
視点を変えて、教義的な忌み事では無いとして考えるならば、キリスト教は神道と違って教祖がいる、人造宗教とも言えるものですので、「神の子」である事の否定こそが最大の忌み事、と考えると、先の言葉の意味が通じるでしょう。
であるならば仮に、キリスト教文化圏で二千年間似たような言葉が使われ続けたのだとすると、最初のキリスト教徒達にとっては、正に存在意義を根底から否定する許しがたい侮辱だったでしょう。
更に言えば、そうした醜聞が当時世間に噂として伝わっていて、バカな妄言を広めるキリスト教徒への侮辱として広まったとも考えられます。
即ち、キリストとされた人物が「私生児」であり「売春婦の子供」であったという風説があったからこそ広まったのではないか、という事です。
宗教という枠を外して考えるならば、人の生態としては性欲関連や状態異常などよりも、食欲や睡眠欲の方が強いかと思います。
個体として考えるならば、種の存続や社会性よりも、個体の存続が優先されるべきだからです。
それなのに、ケガレや性という社会性を個人への罵倒に使われるというのは、暗に「群れからの追放」を意味しているからでしょう。
これは社会的生物である生物には死活問題となり、個人への強迫としては暴力よりも恐るべき事でしょう。
現代社会では、暴力の方が悪いとなってますが、これは「人が理知的且つ文化的な、野蛮ではない存在だ」という、キリスト教的な物語の上で騙られた法制度に依るものでしょう。
人の本性、というか知性より情動が強い人々が利己的で暴力的である事は、言うまでもない話で、犯罪者に与する自称人権派弁護士など実例は幾らでもあります。
これらにキリスト教的価値観というバイアスが掛かると、「地球環境を守ってやる」為の活動と称して、交通の邪魔などをする傍迷惑な活動家等が出来上がるのだと思います。
要因や因果関係など、きちんとした形で構築しないと、正しい縁起というものは見えません。
そして、往々にして、我々は無自覚にワザとその順番をずらします。
では「意識下の」何かが在るのか、とか、そんな話もこの類いでしょう。
即ち「私」というモノを固定化した為に起きる設問であり、これもキリスト教の「個人と唯一神での契約」から派生した共通認識だと思います。
この辺の話は、別の回で書きましたので、今回はここまでと致します。