受動意識仮説は間違い

まぁ、今回も良く判らない話に適当な屁理屈を並べただけです。

えー、「意識や魂などの個人主体の本質は存在しない。」という話は、ご存知の通り、デカルト以降の西洋科学、そして仏教でも似たような話があります。
「だから仏教は凄い」なんて話を期待した方には申し訳無いんですが、この両者は厳密には異なる視点です。
デカルト以降の科学界隈では、機械論的世界観やホログラムや今回のテーマの受動意識仮説やら見れば判りますが、端的に申しますと、心身二元論から唯物論へと向かってるだけでしょう。
二元論で、「取り敢えず別けて考えよう」から、「専門分野で全て解決しなきゃな」という流れかと思います。
具体的に受動意識仮説の「実験」では、「意識するよりも指が先に動きました!」となってますが、
ところで、先ほど挙げた仏教では五蘊という話があります。
五蘊とは、色受想行識の五つで、他の回で説明したので詳細は省きますが、「行い」と「想い」と「意識」は別だとされてます。
従って、先の「実験」に当てはめるならば、
「想」としての「選択した想い」と
「行」としての「指への神経伝達」
「識」としての「本人の自由意識」は別であるので、
単なるタイムラグでしかなかったとも考えられます。
因みに、仏教でもこの「識」も仮設されたものだと二千年前に中観派が論として遺しています。
 個人的にも、
 西洋で自由意識というのは言語化された想念であり、東洋哲学で考えられてた意識は、生物としてのそれだと考えてますので、
東洋で言われる「意識」から西洋的な言語化された「意識」への伝達は、生物の進化過程で運動、身体の操作に比べると極めて最近獲得した能力ですから、
多少はタイムラグがあって当然かと思います。

 これも他で書いた話ですが、西洋科学で考えられてるように、進化の何れかの時点で「意識」が突如発生した、と考えるのは、
仏教での湿生とか中世ヨーロッパの自然発生説と大差が無い様に、自分には見えます。

よく言われる話ですが、昭和から、心に関しては科学的進歩は殆どありません。
 どこかで、精神科の先生が、そんな対談をしてるのを読んだ気がします。
もちろん、薬とか脳の構造なんかは進歩したらしいですが。
余談ですが、それって、精神科での「治療」って、ホントの所はどうなの?とも考えてます。

先の「湿生」のように、仏教だからと全肯定出ないように、
最近の流行だからと、科学的な「仮説」も全肯定すべきでは無いかと思います。
もちろん、「信仰」は自由ですが。

 では、「心」とか「魂」と呼ばれる、此は何なのか、という問に対して自分の考えは、「心とは何か、という問に対する私見」などの回で書きましたので、暇な方は御笑覧下さい。

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