「勿体ない」話
今回は、この「勿体無い」という言葉の話をば。
語義として見た場合、「勿体無い」とは「(体で勿し)が無い」であるはずですが、
ネットで調べると「仏教由来だ」とかのブログもあり、さっき見たwikiには「仏教由来では無い」とかありました。
自分は一応、仏教徒のつもりで、どこかでも書いたような気がしますが、大乗起信論での「体相用」は当時の中国人の発想だと思ってまして、つまり儒教や道教などがベースの価値観を持つ当時の中国人仏教徒の発想だと見てます。
つまり、行法としての仏教ではなく、当時の最新の哲学としての仏教を、他の中国知識人達が理解出来るようにアレンジした「仏教」を説いたものと考えてます。
まぁ、素人考えなので、眉唾物ですが、つまり、元からある「体用思想」のバージョンの一つだと思ってるという話。
なので、「勿体」の「体」は仏教由来とも言えるが、本義としては「仏教由来では無い」のが正しいのだろうと考えてます。
他にもネットでは「威厳や重々しさ」とか出てましたが、語義からすると何のこっちゃという話でしょう。
さて、「体用思想」での「体」が「勿き」こととは如何なる意味か、ですが、
これは「現象や物体の在り方」では「勿い」という話で、「勿い」というのは命令としての「禁止する」とか「してはならない」とかの意味ですので、
つまりは、「現象や物体の有り様を認識する」事を「禁止します」てな話でして、
つまりは、体用思想で見ると「その用で認識しなさい」という話。
例えば、一尺の木の棒が有ったら、棒が其処にあると思うのではなく、何に使えるか考えようという話だと思います。
んで、「勿体無い」の意味とは、wikiに依りますと、
“村出編の広辞苑(第三版,1983)によれば「①神仏・貴人に対して不都合である。不届きである。②畏れ多い。かたじけない。ありがたい。③むやみに費やすのが惜しい。」”
とありますが、
これを先の視点で解釈するなら、
①は仏像の用、貴人の用に対して無い、つまりは「不都合」であるとなり、
②は上役の言や命令などが、用を成して無い、的外れだという謙譲的な言い回しとなります。
「褒美を取らす」「勿体無き御言葉」というやり取りは、
「報奨あげます」「役目を行っただけですので、それに報奨を、給わりますのは筋が違うかもしれません。」
という感じの、定例文となります。
③はいわゆる「モッタイナイ」ですが、これも「本来の用を成して無い」ので、「惜しい」のではなく、「それで宜しいのか」という疑問を挙げてる話になります。
さて、この「モッタイナイ」という言葉は、
ワンガリ某という元環境活動家だか某国の役人だかが「再発見」して世界に広めたという話になってます。
現状では、日本政府も各自治体も大企業なども、この「モッタイナイ運動」をしてるらしく、
世界的にも「ウケて」、ノーベル賞受賞したとか何とか。
彼らの「モッタイナイ」とは「物が捨てられるのはリスペクトが無いから」とか何とかという、極めて物質的な倹約的な話になってますので、
彼らの言う「モッタイナイ」と語義としての「勿体無い」は、全く別の話だと思います。
では、「モッタイナイ」とは何がベースの価値観でしょうか。
またかと思われるかも知れませんが、自分にはキリスト教ベースの話にしか見えません。
ピューリタン的な「清貧」「清廉」とかの亜流として、西側は受け入れ易かったかと思います。
某女史が黒人だったのも、西側のハイソ連中にはウケたのだろうと思います。
これを客観的に見ると、日本文化とキリスト教文化の混交にも見えますが、これまで述べた視点だと、これは日本語の中身を変えたキリスト教文化の侵略と言えるでしょう。
まぁ、現状では下火ですし、文化侵略という話だと、アニメやマンガによる日本からの侵略の方が遥かに深刻ですが。
大局的には、西側社会の民衆レベルでの、日本文化への感心は浮世絵とか東方見聞録の頃からあり、
キリスト教や国家からの数々の侵略行為も、結果としては西側社会への日本文化流布でしかなかったとも言えます。
現在ではアニメなどに限らず、神道やら盆栽やら空手やらコンビニやら車やらが有名になり、民間経済ベースでは、日本というブランドは揺るぎ無い存在となりましたが、
如何せん政治が壊滅的で、これは海外の関係各所も呆れるほどで。
なんとも勿体無い、というオチ。