70年不敬でいるのはそれは敬.
友人に受験のお疲れ様会ということで、ご飯を奢ってもらった。
街中のお洒落なディナーをいただけるお店で3000円以上する肉寿司を奢ってもらった。
友人は夜の繁華街でチェーン店の店員をやっており、たくさん夜勤もやっているのでそこそこ稼いでいるようだ。
任せなさい.いいよ〜くらいのノリで、今日は2万持ってるから2万のうちならという冗談めかした彼の優しさは、本当にいいフットワークの軽さとして、それが彼のバイト先での人気にも繋がっているのだろうと思った。
そんな彼はよく厭世的な、それでいて面白みも兼ね備えた冗談を言う癖があり、癖というか一つの人柄なのだが、
そんなときに彼は「これは不敬だ(笑)」と言って笑う。
不敬だ、というのは「こんなことを言っていてはとてもじゃないがまともな国民とは言えない笑」というような、少し半グレ要素のこもった、厭世的な、それでいて諧謔的な冗談なのだ。
それを私も一緒に会話していて、「どうやら君はずっと不敬のままでいきそうだね」というようなやり取りになった。
彼は自己認識がはっきりしていて、よく自分の性格を知りぬいている。
どこでそんな自己分析ができたのだろうと毎回不思議に思うのだが、
ほんとうに彼を一番知っているのは彼自身なのだ。
そんな彼はブレないので、
どうやらこのまま不敬のまんま、つまりはちょっと厭世的で、それでいて面白味を兼ね備えた人柄は、死ぬまで続いていくんじゃないかという気がしたのだ。
私はそんな彼の人柄を見て、
確かに言っていることはとてもじゃないが公の場で発言できるものではないし、
大多数に属するようなものではないと思う、
しかしもし彼がずっとこのままで生き続けたなら、(私たちは70歳までという話をしていた)つまり70年も生きて不敬であり続けたら、それはもう敬(けい)の領域に入るよ、なんていう冗談めいた対話をしていたのだ。
一時的な目で見たら、"愚か"というものはみんなから蔑まれ、嫌悪され遠ざけられるかもしれない。
しかしそこに愛があって、それでいて自立した人間が、いつまでも"愚か"であったのなら、
たとえ最初の5年や10年は相手にされなくても、
それが30年40年と続いていくならば、それはもう国宝級の価値を持つと思うのだ。
私はいつも不敬で、厭世的で、それでいて面白味のあるような冗談めかした愛のある彼の人柄を見ていると、
これは「偉大だなあ」と思えてならない。