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ささやかな日常が好きすぎる。
カポを3フレットにつけたまま床に寝ているギター、目を上にやれば乱立する香水とペーパーセントと受け皿、こじんまりとした置物
横には小さなスペースにお気に入りの本とDVDがギュっと肩を並べている。
私のお気に入りだ。
とっておきのものは取っておきたい、物質至上主義でもなくだじゃれでもなくて、目に見える形で自分のスキを置いておきたいのだ。

私は自分の部屋が好きだ。
秋になれば斜陽が印象派のごとく降りかかり、夕暮れに沈む陽を窓から眺める。ほかの家よりも一つ背が高いこの部屋だからこそ見える夕日。

「幸せのハードルを下げる」ことは、悪いことなのだろうか。
高校生のころ、ふと思ったことがある。
今日は気分がいいからコーヒーに砂糖を入れよう
花を買ってみよう
夜更かしして映画を見よう
映画館に行こう

私の中での少しの許しは少しの幸せだ。それをしようとするだけで心がワクワクしちゃう。

それがコンビニでアイスを買うでも、スイーツを買うでもいい。
ささやかな日々に幸せを感じ取りたいのだ。

花を見るだけで幸せになれる人間であるため、人よりも幸せを感じることが多い。
花だ!なんて思ってもなんも思わないだけの人間もいるだろうけど、私はそういう幸せが好きなんだよな。

変なところで感受性が高いのにはもちろん弊害もある。

家の前にあった畑は持ち主の高齢化やらなんやらで、売られ、いまでは分譲住宅が建っている。一年前の夜、玄関を開ける前になんとなく、枠組みとブルーシート、仮足場が建てられていく様子を見ながら、悲しくなってしまった。新しい家が建つのは楽しみだし、枠組みから一生はいることのできないその家の内装が少しわかる。なんだか一生かかわることのないだろう人の生活をのぞき見するみたいだ。でも、私はそこに家がない状態を知っている。それが生まれてからこの前までの私の中の普通だったからだ。
この前、家の前の道路に引っ越し屋のトラックがあった。荷物を家の中に運んでいたから住民が決まったのだろう。

隣の家もそうだ。もともとは私の家の駐車場であったが、私情で土地を手放した。今では子供のいる家庭の家が建っている。私の家の一部だったからより一層悲しいけれど、部屋から見下ろす洗濯物や駅に向かう際に見かけた子供の落書きの跡がいとおしい。

私の故郷だったものは故郷の形を残しつつも変わっていくのだ。
私が今見慣れた景色ももしかしたら誰かにとってかわった故郷の後だったかもしれないし。

まぁ、変なところでいろいろ考える癖があるんですね私は。
ふふ、私って素敵ね。

以前、どっかのnoteで「誰かの一部になりたい」と書いた。それは私の考えや感じるポイント?を誰かに理解してもらうことにも似ている。
だから、もしこのnoteを見たあなたにも私の感銘することを知ってもらうなりなんなりして、私の一部になってもらいたい
私のスキを共感してもらいたいな、何なら。でもなんかささやかな日常をこれほどまでに好きでいたらその人の中で私を感じる部分が多くなるんじゃないか?
これは呪いだな。

そういえば、全く話は変わってしまうのですが、私の誕生日の時にある人から「健やかに生きてね」といわれた。その人らしさを感じて、なんだかお気に入りだった。なので私も誕生日のメッセージを送るときに「健やかに生きてね」というようにしている。


なんだかよくわからないけど、文字に起こしたくなってしまいました。
もうすぐ春休みですね。皆さんはどんな日々を送るのでしょうか。
僕のささやかな幸せを共感してもらえるのなら、忙殺される日々で感情が死ぬ前に下を向きながら歩いてるときとかに路傍に咲く花を見て幸せを感じてほしいです。何なら僕のことも思い出してほしい。

おやすみなさい。

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