作品のもつ二面性
おはようございます。
早起きできて暇なので思ったこととか書こうかなって。
皆さんは芸術、ないしは文化的作品に触れたことがありますか?
ない人間なんていないですよね。文化と社会は生きていく上に不可欠なものですから。
私は好きなものにはたくさん触れ合っていたいです。どんな媒体を介してでも私は世界をのぞいていたいのです。
ある人が言っていました。
「人類はみなアーティストである。」
「この世のすべてのものは創作物から成り立つ。」と。
言われてみればそうですよね。一口に作品といっても
美術館に飾られているような大きな絵画、彫刻だけが作品とは限りません。お菓子のパッケージ、ビルの形、広告。
「○○の人たちにとって使いやすいコップを作ろう」と思い浮かび人それぞれの考えを(イデア)を通して生まれたコップは多種多様であるように。
この世は芸術的ですね。
人によって美的感覚は違います。こんなにたくさんの人間が生きているからこそその感覚が世間に評価されるのが難しいんですね。
私の美的感覚の一例をあげるとするならば、季語の「白息」にすごく感銘を受けます。
そして、私は常々、作品この世から生まれる創作物すべてにおいて「芸術的側面」と「産業的側面」があると思っているんですよね。
芸術作品は作者の考えや世間をどう見ているか、作者自身の完成を物体もしくは何かしらの媒体を通して目に見える形あるものに残す。
「私は世間をこう見てますよ。」と言っているようなもので時に解説が必要だったりしますね。だってその特異性が世界に評価されて後世に残っているんですから。
そして私たちは資本主義の世界に生きているのでどうしても「産業、お金」とかかわることがあります。
そこでの評価ポイントはどちらかというと「世間一般の人に広くあてはまり、共感、感動を受けるもの」である気がします。
わかりやすく言えば、King Gnuは邦ロックで売れる路線を研究してバンバン稼いでいるけれど、常田大希ソロプロジェクトは芸術的教養がある人に評価されている。みたいな。
そういうコンテンツで生きている人にとっては自分の世界のものさしを出す際にこれからもそれで食っていけるかも重要になっていきます。
仕方ないですね、仕事なので。
でも、その産業的側面を強く押し出すことだけがすべてなのでしょうか。
若いロックミュージシャンを目指す人が自分の作品に対して「作品を評価されたい」よりも「作品を使って売れたい!」と嘆いているのは文化に対する侮辱なのではないでしょうか
作品の持つべき意味がそこに行きつくのは資本主義の奴隷みたいですね。
一気に陳腐で作品の持つ意味合い価値が薄っぺらく感じてしまいます。
私は「世間に自分の考えを出す行為それすべては創作的行為だ」と思っています。卒論を出すなり、こうやってnoteをかくなり、vlogをだすなり。人類はみなアーティストなのでね。
でも真価をそこでもう一度考えてみることも時には重要なんじゃないかなって思いました。
そんな感じです。
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