誕生日ってやっぱり「おめでとう」じゃないと思う

書いてから時間が経ってしまいました
書いて出してもらおうと思って置いといて投稿を忘れてました
本編ー線以下
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最近朝はEテレ見てる
お母さんが朝から事故だの事件だの見たくないって言ってから、Eテレならそういうのないよってことで見てる
僕が見てた頃とかなり変わっていてSDGsや性教育についてもやってる
今日(4/25)はなんで誕生日っておめでとうなの?ってやつを見て、ざっくり受精から出産まで(そういう難しい言葉は使わずに)説明されて、生まれてきたのはキセキなんだよって言ってた
僕はずっと誕生日おめでとうに違和感を感じてて、やっぱりありがとうじゃないのかと今日更に思った。
奇跡だというなら有り難いことなんだからありがとうじゃない?
軌跡だというなら生きててくれて、軌跡を断たないでいてくれてありがとうじゃない?
前記事に書いたやつそのまま持ってくるけど、
(前置き)『おめでとうって、よく聞くけどそれってあんまりよくないんじゃないかと勝手に思ってる
おめでとうって、呪いの言葉なんじゃないかと思ってる
呪い(まじない)の方が合うかと思いもしたけどどっちにせよ字面的な意味は多分一緒だ
読み方違うだけ
祝い事って呪いだ
入学、進級おめでとうは、これから(高学年だよとか中、高校生だよとか)そういう風になろうねって呪いで
卒業おめでとうは、もうこの程度のことはできるよねって呪いで
結婚とか妊娠とかおめでとうは、夫婦、親というものとして自覚を持ちなさいとかの呪いで
いろんなおめでとうがあるけど
おめでとうって期待の言葉で
期待とか言う明るい言葉はその実相手を縛るためのまじないでしかない
そのまじないのおかげで成長できたなら、それは必要な重荷だけど、いい傾向が一つもなかったり、逆効果だったり、必要ないなら下ろしていいと思う
おめでとうって相手に喜ばしいことが起こったときの言葉で、期待をかけるような言葉じゃないんだろうけど、贈る方がなんとも思ってなくても受け手が深読みし過ぎたらこうなってしまうんじゃないかと思ってしまう
僕が深読みし過ぎてしまっているのか、神経質なのか、普段使ってる言葉の意味がすごい気になる
言葉の意味は時代によって変わると言うし、それに合わせることが一番楽で現代的で正しいことなんだと思う
ただ昔と今で意味が変わってしまった言葉を今はこうだからで片付けるのはなんかもったいない気がする
かと言って本来の意味を知って周りに広めるのも自分が合わせるのも結局面倒にはなるんだけど』
(誕生日について)『僕がおめでとうが一番変だなって思うのが誕生日おめでとうで、なんかずっと違和感あって誕生日って一年成長した節目とか、これだけ長生きしてる節目とか、お祝い事のようだけど、僕からしたら死に近づいてる節目にしか思えない
成人してからは歳を取るほどできることも少なくなるし、年齢的にという目で見られることも増えていく
成人まではともかく、それ以降年を重ねるのって、ただ衰えていってるんだよね、多分
年取るのがいいこととも悪いこととも言えないけどとりあえず年に敵わないって、いつでも言えることなのは分かる
未成年なら体の年齢が若いからできないことたくさんあるし、成人なら、知識や経験をたくさん身につけた老人に敵わないってこともあるだろうし、老人は身体的に若さに敵わないってこともあるだろうし
いつだってやりたいやりたいって思っても、年齢的、身体的な制限を打ち破ることってなかなかできないんだろうなって思う
でも精神的にやりたいことは全然やっていいんじゃないかな
それに制限とかないでしょ
若いからとか年老いてるとか男だから女だから、体関係なくできることなら、周りから止められる筋合いないと思うけどね
止めてる奴らは何様だよって思う
話ぐるぐるするけど、誕生日おめでとうって、英訳ではhappy birthdayなんだよね
おめでとうはコングラッジュレイションズなのに
単語ごとに訳したら“幸せな誕生日”、でおめでとうとは言わないんだよね
英語苦手だからちょっと詳しくは調べる気力と知力が足りなかったけど、多分誕生日を幸せに過ごしてねってことなんじゃないかと思う
他人事というか、深く関わってない感じがする
それがいいんじゃないかな
大人になったねおめでとうとか
長生きしておめでとうとか
そういうなんか人生を縛られかけてる感じがない、と勝手に思ってる』「おめでとうって呪い」
全部僕が勝手に考えたことで、誕生日おめでとうの文化を壊そうなんて思ってないけど、生きてること、歳をとることを苦痛に感じる僕からすれば、誕生日はありがとうと言われたい
そして人の誕生日にはありがとうと言いたい
生まれてくれて有難う
生きててくれて死なないでいてくれて有難う
命なんて有る事自体不思議なほど難しいものなんだから、少なくとも僕は有難うを使いたい

(小話を挟みます)
有難うって、そういえば寺子屋で初めて知った言葉だった
「ありがとうは、漢字でどう書くでしょう」
ホワイトボードには有難と書かれた
「有ることが難しいことを有り難いと言います。お母さんお父さんにご飯を作ってもらったり、なにか買ってもらうのも有り難いことです」
小学校低学年のことだから詳しくは覚えてないけどこんな感じのニュアンスだった
寺子屋を中学でやめるまで何回か聞いた
僕は遊びに行く感覚で寺子屋に行っていたけど、案外得れたものは多い
その一つがこれだと思う
小さい時に言葉のでき方というか意味を教えてもらっていたからこうして疑問も持っている
それを自分なりに納得しようとできている

話があっちこっち行くけど、これは僕が勝手に思っている事で、あくまで大多数的にはおめでとうと言われる方が嬉しいのかもしれない
ただ僕が期待、信用信頼、そういうものが怖くて縛られたくなくて苦しみたくなくてそういう思考に至ったのかもしれない
思考が違えば渡される言葉がプレゼントになるか錘になるか変わってくる
不思議の国のアリスのなんでもない日みたいに誕生日の解釈って考えようとすればいくらでも考えつくものだろうし、誕生日に留まらず言葉、単語について自分なりの納得できることを考えるっていうのが言語を理解しようとするってことじゃないかな

今日誕生日の人有難う
この世に生きてる人、生きてた人有難う
この記事を読んでくれた人有難う
僕の自己満につきあってくれて有難う
もしよければ今後とも有難うと言い続けさせてください

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