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古代中国の宰相と将軍たち0023

范蠡と伍子胥・孫武

 范蠡は中国春秋時代の越王勾践の家臣。伍子胥は呉の名将。

 范 蠡(はん れい、生没年不詳)は、中国春秋時代政治家軍人である。、字は少伯。越王勾践に仕え、勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の立役者とされている。
 出生不詳死去不詳拼音Fàn Lǐ少伯別名鴟夷子皮、陶朱公。

 范蠡がどこで生まれたのか、どのような経緯で越の允常(勾践の父)に仕えるようになったのか、彼の経歴による明確な確証がない。

 隣国の闔閭伍子胥孫武らの補佐を受けて強勢を誇っていた。越王允常は范蠡の補佐で国力を伸ばしていた。しかし紀元前496年に允常が逝去し、太子の勾践が父の後を継いだ。允常の訃報を聞いて喪中に服している越に対して、闔閭は出る杭を先んじて叩いてしまおうと判断し、攻め込んできた(欈李の戦い)。しかし、欈李(現在の浙江省嘉興市海寧市)で、范蠡はこれに対して奇計を持って迎えた。その奇計と言うのは決死隊(『左伝』では罪人。こちらが正確か)を集めて敵の目の前まで行かせてそこで自ら首をはねさせるという物で、呉軍が仰天している隙を付いて越軍は呉軍を撃破した。越の武将霊姑孚が射た矢で片足を破傷したのが原因で闔閭は陣没し、太子の夫差が立った。

 夫差は伍子胥の補佐を受け、越への復讐(臥薪)を狙い、それを知った勾践は今のうちにと呉を叩こうと出兵しようとしたが、范蠡はこれを諌めた。しかし勾践は聞き入れずに出兵し、大敗してしまった。勾践は夫差に対し平身低頭で命乞いをし、更に家臣の中の文種は夫差の側近伯嚭(嚭は喜否)に賄賂を贈って夫差に勾践を助けるように吹き込んだ。この時に伍子胥は勾践を殺す事を強弁したが、夫差はこれを取り上げず、勾践を解放し夫差の馬役人にさせた(嘗胆)。

 国に戻った勾践は国政を范蠡に任せようとするが、范蠡は「軍事なら種(文種)は臣に及びませんが、政治にかけては臣は種に及びません」と応え、文種を推薦した。勾践は范蠡・文種の補佐を受け、復讐を狙っていたが、表面的には夫差に対し従順な姿勢を見せて、夫差を油断させた。更に范蠡は伯嚭に賄賂を送り、伍子胥の悪口を夫差に吹き込ませて離間を狙った。思惑通り、伍子胥は夫差に誅殺され、夫差を諌める者はいなくなった。夫差は調子に乗って北へ出兵して天下の事を争おうとし、越の事など気に止めなくなった。

 夫差は呉軍の大半を率いて北の会盟に出かけて、国許を守るのは太子・友とごく僅かの兵になった。勾践はその隙を衝こうとして、范蠡に訊ねた。范蠡は 「よいでしょう」 とこたえた。そこで越は大軍を発し、一気に呉を襲い、太子を殺して呉を占領した。夫差は慌てて引き返してきた。勾践は、 「まだ呉の全土を占領するには力が不足している」と判断し、一旦和睦した。その後も夫差は無理に北へ出兵して国力を消耗した。四年後、越は呉に決戦を挑み、遂に夫差を姑蘇山に追い詰めた。夫差は降伏して命乞いしたが、范蠡は後顧の憂いを断つべく殺すよう進言した。勾践は殺すことはためらい、舟山群島に島流しにしようとしたが、その命令を受けた夫差は自殺した。

 悲願が達成されて有頂天になる勾践を見て、范蠡は密かに越を脱出した。范蠡は文種への手紙の中で「私は『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る』(狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまう)と聞いています[1]。越王の容貌は長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)です。こういう人相の人は苦難を共にできても、歓楽はともにできないのです。どうして貴方は越から逃げ出さないのですか」と述べた。

 そこで文種は災いを避けるため病と称して出仕しなくなったが、文種に謀反の疑いありと讒言する者が現われた。勾践は文種に剣を贈り、「先生は私に呉を倒す7つの秘策があると教えて下さいました。私はそのうちの3つを使って呉を滅ぼしました。残り4つは先生のところにあります。私のために先生は亡くなった父王のもとでその秘策をお試し下さい」と伝え、文種は自殺した。

 范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光西施(せいし))を密かに送り込んでいた。思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴ってへ逃げた。

 越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつてのの国都で、今は領となっている定陶(現在の山東省菏沢市定陶区)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった(陶朱の富の故事)。このことについては、史記の「貨殖列伝」に描かれている。

浙江省紹興市諸曁市内に陶朱山がある。

 范蠡の見事な活躍と出処進退は後世の憧れとなり、好敵手の伍子胥と共に長く語り継がれている。

 范蠡は日本でも名臣として有名である。『太平記』巻第4「呉越闘事」(西源院本の事書)には、後醍醐天皇の臣児島高徳が「天勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」という句を贈ったという話がある。後醍醐天皇を勾践にたとえ、名臣が出現しないわけではないのだから諦めないようにと励ましたのである。この逸話は「児島高徳」という文部省唱歌に詠み込まれ歌われた。


伍 子胥(ご ししょ、? - 紀元前484年)は、春秋時代政治家軍人(うん)。子胥は

出生不詳
、乾渓死去紀元前484年拼音Wǔ Zǐxū子胥父伍奢兄弟伍尚、伍子胥テンプレートを表示

 の名家に生まれたが、父と兄が楚の平王によって処刑されたため楚を逃れて呉に亡命した。呉では呉王闔閭の側近となって兵家孫武を王に推挙し、孫武と伍子胥を得た闔閭は楚を破りその都を陥落させた。このとき伍子胥は既に死去していた平王の墓を暴き、その屍を300回鞭打って父と兄の恨みを晴らしたという。後に闔閭の臨終に際して公子夫差を後継者に推挙し、呉王となった夫差は苦難を重ねて勾践を破るが、晩年は夫差に疎まれ、最期は夫差に授けられた剣で自ら命を絶った。

 の乾渓(現在の安徽省亳州市利辛県)の人。直言をもって荘王から信頼された伍挙の孫で、代々楚の重臣を担った家柄であった。伍子胥の父の伍奢平王の子の太子建中国語版)の太傅(侍従長兼教育係)で、直言清廉で知られていた。伍子胥は九(約2m)を超える身長と、盛んな意気を持っていた。

 紀元前527年、太子建に秦から嫁を貰うことになり、少傅(副侍従長)の費無忌が楚に嫁いでくる伯嬴を秦まで迎えに行った。しかしその美しさを見て平王に取り入ろうと考え、伯嬴を平王の側室に薦めて、太子には別の女性を与えさせた。これにより費無忌は太子付きから平王の側近に取立てられたが、恨みを持つ太子がこのまま即位しては自らが危ないため、盛んに平王へ中傷を吹き込んだ。

 これにより平王と太子建との仲が悪くなり、紀元前522年に建が太子を廃されることになると、伍奢とその子の伍尚中国語版)(伍子胥の兄)と伍子胥もその影響力を恐れられ、平王は殺すことにした。平王は伍奢を捕え、「都から離れているお前の息子たちを呼べ。そうすれば助けてやる」と言ったが、「伍尚は心優しいですから殺されるとわかっていても来るでしょうが、伍子胥は違います。苦難に耐える意気を持っております。来るわけがありません」と断られた。次いで平王は伍尚と伍子胥へ「お前たち兄弟が都に来たら父を助ける」と使者を送った。平王の無道ぶりを知っていた伍子胥は自分たちを全員殺すための罠と見破り、伍尚へ逃げようと誘うが、伍尚は「そうだろうが、父を見捨てられない。私は楽な道を選ぶ」と命に従い、伍子胥は使者を弓矢で脅して逃れた。なお、伍奢と伍尚は処刑されることになったが、伍奢は伍子胥が逃亡したのを知ると「楚の君臣は兵の難に苦しむことになるだろう」と言い残した。

 伍子胥は復讐を誓い、太子建と共にに脱出する。その途上に親友の申包胥と会った際、伍子胥は「必ず楚を滅ぼしてやる」と言い、申包胥は「ならば、私は臣として楚を守ろう」と言った。鄭で太子建は匿われたのにも関わらず、に唆されて鄭に反逆しようとしたため、逆に殺される。

 だが、伍子胥は太子建の子の熊勝中国語版)と共に、今度は呉に逃亡した。この道中は過酷なもので、物乞いをして凌いだことも、病で死線を彷徨ったこともあったという。また、楚と呉との間にある長江の辺りで追手に追われている際、たまたま居た漁師に隠れるように促され、更に長江を渡して貰った。その礼として持っていた百金はする剣を渡そうとしたが、漁師は断った。伍子胥が再び勧めると、「伍子胥という人を捕らえた者には、爵位と5万石を与えると聞く。百金など要らないよ」と去っていったという。

 呉で伍子胥は公子光に仕え、呉王僚や公子光に楚を攻めるよう進言し、呉王僚はその気になったが、公子光はまだ早いと抑えた。これに伍子胥は公子光に野心ありと見抜き、専諸を推挙する。自らは呉が内紛で荒れると見て、農夫となって暮らし時節を待った。

 紀元前515年、呉の主力軍が出征した楚で立ち往生するに至ると、呉王僚の王位継承を不当だと思っていた公子光は、国内が手薄な今がクーデターを起こす絶好の機会と考えた。そして、呉王僚を宴席へと招き、専諸を差し向けてこれを暗殺した。公子光は即位して闔閭となって、伍子胥を側近に立てた。こうして、伍子胥は楚の隣国の王の側近という立場を得た。

 また、伍子胥は孫武の著した『孫子兵法』を献上し、7回にわたり登用を説いた。孫武は闔閭に招かれ、その才能を認められ将軍として迎えられた。

 そして、伍子胥は孫武と共に闔閭の補佐に当たり、呉国内の整備に尽力した。楚へは十分な準備が整うまではと闔閭を抑えていたが、楚の広大さと君主が幼少に変わったばかりなことを突き、小規模な兵を出して国境の集落を襲い、楚が国軍を発して迫ると引くということを繰り返して国力を浪費させた。

 紀元前506年、闔閭は「そろそろ楚を攻めようと思うのだが」と伍子胥と孫武に聞いた。伍子胥は「楚の内情は酷く勝てるでしょうが、万一もあります。属国として搾取され、楚への恨みを貯めている唐と蔡を味方に付ければ万全です」と答え、使いを出すと唐と蔡は即座に内諾した。こうして闔閭・伍子胥・孫武は本格的な楚侵攻を始める。柏挙の戦いである。十分な準備に加え、楚の地理と内情を良く知る伍子胥・兵法の天才孫武という人材が揃い、連戦連勝して、遂には楚の都を陥落させた。平王は既に死んでいたので伍子胥は王墓を暴き、平王の死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした。これが「死者に鞭打つ(死屍に鞭むちうつ)」の語源になった。この事をかつての親友の申包胥にあまりに酷いと責められた時に、伍子胥は「吾、日暮れて塗(道)遠し、吾、故に倒行して之を逆施す(吾日暮塗遠、吾故倒行而逆施之)」と答えた。「自分はもう年を取っているので、(物事を行うに当たって)正しい道理に逆らった手段・方法を採る。」という意味である。こちらは「日暮れて道遠し(ひくれてみちとおし)」、四字熟語「倒行逆施(とうこうぎゃくし)[1]」の故事となっている。

 しかし、首都陥落直前に楚王(廃太子の異母弟である昭王)は逃亡していた。放っておけば地方の兵などを使って再興しかねないため、徹底的に探させたが、なかなか見つからなかった。

 紀元前505年、その間に王の允常が呉に攻め入ってきたため、兵の半分を帰した。更に申包胥がの援軍を取り付け、形勢は悪化。闔閭は楚に留まっていたが、将軍として従っていた闔閭の弟の夫概が勝手に帰国し呉王を名乗ったため、楚から引き上げてこれを追い払った。

 呉に戻った伍子胥は再び闔閭の補佐に努め、呉を天下に並ぶもの無き強国にまで押し上げた。次は楚への侵攻や中原に進出していくことになるが、その前に隣国の越を攻めるよう進言した。越から見れば中原に出るには呉が邪魔であり、呉からも中原に出れば越に背後を突かれる恐れがあった。また、越は今のところ気にするまでもない小国だが、急速に国力を増大させていることを見逃さず、将来の禍根となることを恐れたためである。闔閭はこれを聞き入れ、呉の富国強兵に尽力した。

 紀元前496年、越王允常の訃報を聞いた闔閭は、伍子胥の進言もあり、自ら兵を率いてこれを衝いて越を討伐した。しかし、允常の子で後を継いだ勾践の家臣の范蠡との知恵比べに負けて、呉軍は越軍に大敗した。この時、闔閭も越の武将である霊姑孚が放った矢によって片足を負傷し、破傷風を起こして容態が悪くなり、床に伏せるようになる。

 闔閭の容態が芳しくなくなると、数人の公子のうちのひとりの夫差が伍子胥の元を訪れ、自分を後継者に推してくれるよう頼んだ。伍子胥は闔閭の元を訪れ夫差公子を太子に推すが、闔閭は「夫差は情に薄く君主の器に足りないのではないか」と憂いた。これに伍子胥は「足りない所は周囲が補えばよいのです。それより早く後継を明らかにしないと、権力闘争が起こりかねません」と答え、闔閭はこれを認めた[2]。闔閭は夫差を呼び「勾践が父の仇と忘れるな」と言い、夫差も「3年以内には必ず仇を取ります」と答えた。

 間もなく闔閭が死去して夫差が後を継ぎ、父の復讐を誓う。伍子胥もそれを補佐し、着々と準備を進めた。これを恐れた勾践は范蠡の反対を押し切り、紀元前494年に越軍を率い呉に攻め入るが大敗。呉軍はその勢いのまま越に攻め入り、勾践を越の首都近くの会稽山へ追い詰めた。

 勾践は使者を送り、「越は呉の属国となり、私は呉王様の奴隷として仕えるので、許して頂きたい」と申し出てきた。夫差が許そうとしたので、伍子胥は「勾践は辛苦にも耐えうる性格なので、生かしておいては必ず災いとなります」と勾践を殺す事を強く主張したが、結局夫差は越を従属国とする事で許した。

 これ以降、越は恭順したふりと賄賂で、警戒を次第に解かせていく。これを上辺と見抜き、越に対する警戒を忠告する伍子胥と、越など置いて一刻も早く中原へ進出したいと願う夫差との間は上手く行かなくなってきた。范蠡が密偵を使い、夫差の耳に伍子胥の中傷を流し込んだとも言われる。また、西施という美女を送り込んで、夫差を骨抜きにさせて越を警戒しないように仕向けたとも言われている。

 夫差は北方のが幼少の君主に代替わりし政情が不安定なことを知ると、侵攻を画策した。伍子胥は「斉は皮膚の病、越は内臓の病(目に付き気になるのは皮膚の病気=斉の内乱だが、気づきにくく生命に係わるのは内臓の病気=越の存在である)」などと進言したが、夫差はそれを退けて、かえって呉軍は艾陵において斉軍を撃破したこともあり、以後夫差は伍子胥の進言を軽視するようになった。また、伍子胥を疎ましく思っていた宰相伯嚭への越からの贈賄工作も重なって、様々な手段で伍子胥が夫差の不興を買うよう仕向けられたことも、両者の不仲を増大させた。

 その後も夫差は越など眼中になく、中原へ進出し覇者になろうとした。諸侯との覇を巡っての戦費や外交費は呉の財政を逼迫させ、度重なる出兵や重税は民を疲弊させ、呉はその国力を急速に消耗させていった。

 紀元前484年、これではいつか越に呉は滅ぼされるだろうと見切った伍子胥は、斉に使者に行った際に子[3] を斉の鮑氏に預けたが、先王から多大な恩を受けた自らは呉を見捨てられないと戻った。この事が本国に帰った後に問題になり、加えて伯嚭が「伍子胥は剛暴で恩愛の情が少なく、王に恨みを持っております。何もしなければ大いなる災いを招くでしょう」と讒言したため、伍子胥は夫差から属鏤(しょくる、名剣の名)の剣を渡され、自害するようにと命令された。

 その際、伍子胥は「ああ、奸臣伯嚭が乱す。私はお前(夫差)の父を覇者とし、諸公子が争ってる時にはお前を推薦した。後継者と確定した際、呉を分けてくれると言ったが、私は(良き王と国になることを)願って受け取らなかった。その結果が死ねと命じられることか」と嘆き、「自分の墓の上にの木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と言い残し、自ら首をはねて死んだ。

 だが、その言葉が夫差の逆鱗に触れ、伍子胥の墓は作られず、遺体は馬の革袋に入れられて川(呉淞江)に流された。人々は彼を憐れみ、ほとりに祠を建てたという。伍子胥が死んだ後、呉には夫差の国力浪費を咎める者も越を警戒する者もいなくなった。

 その後、伍子胥の予言通りに国力を蓄えた越に呉は滅ぼされた。この際、勾践は夫差に使者を送り小島の領主にすると言ったが、夫差は「私は年老いました。とても君主にお仕えすることはできません。伍子胥の言葉を取り上げずに、自分自身がこんなに陥ったのは残念です」と言い残し、顔に布を覆って「私は伍子胥に合わせる顔がない」と言い残して、自決した[4]

 伍子胥は激情の人である。その何人も恐れぬ激情さゆえに多大な功績を上げた。しかしその激情ゆえに最後は主君と対立し疎まれ、自殺に追い込まれた。一方、范蠡は冷静に時流を読むや越を去り、最後は斉で富豪になったといわれる。鮮やかに身を引いて人生を全うした范蠡の生き方に後世の人々は感服し敬愛したが、その一方で激情の人の伍子胥の激しい生き様にも心を打たれ愛情を注いだ[要出典][5]

 この例は後世にも引き出され、宰相范雎が自分の身内が次々と罰せられた際に遊説家の蔡沢からこの2人の例を聞き、引退を決意したとされている。[要出典]

 曹操官渡の戦いの時に自軍に降ってきた張郃らを出迎える時に伍子胥の最期を引き合いに出し、「伍子胥は仕える君主を間違えた事に気付くのが遅かった。君が私に降伏したのは微子啓を裏切ってに仕え、韓信項羽の下を去って劉邦に仕えたような真っ当な行動である」として偏将軍に任命し、都亭侯に封じた。

 司馬遷の『史記』では、「建(楚の太子)は讒言におち、(禍いは)伍奢に及んだ。(伍奢の子の)伍尚は父の言いつけ通りにしたが、伍員はのがれて呉へいった」と列伝の6巻に「伍子胥列伝」として取り上げられている。その纏めで「怨恨の害毒が人に与える影響はとても大きなものだ。王でさえ臣に怨みを持たせるような行いはできない。同列なれば尚更である。初めに伍子胥が父に従い死んだとして、その命が虫けら達と違うところがあっただろうか。小さな義を捨て大きな恥を雪ぎ、その名声を後世にまで残したのである。悲壮な人生ではないか。楚軍によって揚子江のほとりに追い詰められた時は乞食にまでなったが、その志は郢(楚の都。復讐の対象)を忘れることは無かった。だから、隠忍して功名を成し遂げることができたのである。壮烈な偉丈夫でなければ、誰がいったいこれほどの難事を成し遂げられるだろうか」と司馬遷は肯定的な評を加えている。列伝70巻のうち最初から6番目に単独の列伝として取り上げていることから、司馬遷の評価は高かったと思われる

 しかし、伍子胥を非難しているものもあり、『史記』の伍子胥列伝の申包胥だけではなく、『春秋穀梁伝』定公四年にも「子胥の復讐は、君臣の礼に違い、王の事えるの道を失う」とあり、やはりその行き過ぎが責められている。君臣の関係を絶対的なものとみれば、伍子胥の行動は許すべからざる逸脱ということになる。『春秋穀梁伝』の評価は、現在の目からは腑に落ちないが経典の道徳的読解としてはあり得るものであると思う。このように、伍子胥に対する見方は一様ではない。確かに彼は父と兄の仇に復讐を果たしたのであり、そのことは評価されつつも、故君を敵として、死骸を鞭打ち果ては国そのものを滅ぼさんとする、あまりに激しいその意志に対して、嫌悪感や抵抗感が惹起されるのも仕方のないことである[6]

 一説によると、端午節は伍子胥の命日であるため、5月5日の端午節は伍子胥を記念する日になった。

孫武


中国古代・春秋時代の武将・軍事思想家。兵法書『孫子』。斉国出身。
孫 武(そん ぶ、紀元前535年頃 - 没年不詳[1])は、中国古代・春秋時代の武将・軍事思想家。兵法書『孫子』の作者とされており[2]、兵家の代表的人物。斉国出身。字は長卿[3]。孫臏の先祖。「孫子」は尊称である。

 「戦わずして勝つ」という戦略思想、戦闘の防勢主義と短期決戦主義、またスパイの重要視など、軍事研究において戦略や戦術、情報戦など幅広い領域で業績を顕し、ベイジル・リデル=ハート毛沢東など、現代の軍事研究者、軍事指導者にも重要な思想的影響を与えた。その軍事思想は航空技術や核兵器など、古代に想定できなかった軍事技術の発展した数千年後の現代においても有効性を失わず、今なお研究対象とされている。

 孫武に関する資料としては正史『史記』の他、呉越の興亡について記した野史(載記)の『呉越春秋』、孫子の先祖や子孫について述べた唐の正史『新唐書』「宰相世系三下」が主要な資料となる。これらの古文献の記述する孫武の伝記は以下のようなものであるが、史実性に関しては後述のとおり論争の対象である。
 それによると、孫武の出自は斉国の大夫で後に田斉公族田氏嬀姓中国語版))である[4]。孫武は若年から兵書に親しみ、黄帝と四帝の戦いや古代の伊尹姜尚管仲らの用兵策略を研究したという。紀元前517年頃、一族内で内紛があり、孫武は一家を連れ、江南国へと逃れ、呉の宰相・伍子胥の知遇を得る。孫武はその後、呉の王都・姑蘇郊外の山間に蟄居して『孫子』十三篇を著作した。
前515年、呉の王に闔閭が即位すると、伍子胥は闔閭に「孫子兵法」を献上し、七回にわたり登用を説いたため、闔閭は孫武を宮中に呼び出して兵法を問うた。この時のエピソードが『史記』巻65孫子呉起列伝第5[5]に記されている次の「孫子勒ロクす[6]姫兵キヘイを」(孫子勒兵ロクヘイとも)である。

 闔閭「先生の著作十三篇はすべて読んだが、宮中の婦人で、少し軍の指揮を見せてもらうことはできるか」
 孫武はこれを了承した。「よろしゅうございます」

 孫武は宮中の美女180人を集合させて二つの部隊とし、武器を持たせて整列させ、王の寵姫二人を各隊の隊長に任命した。
 孫武が「左右前後がわかるか」と聞くと、一同「わかります」と答えた。孫武は「前といえば胸を、左と言えば左側、右と言えば右側、後ろと言えば背側を見よ」と言った。女性たちは「わかりました」と答えた。そこで将軍の印の鉄斧を置き、命令をはじめた。太鼓を打って「右!」と号令すると、宮女たちはどっと笑った。
 孫武は「命令が不明確で徹底せざるは、将の罪なり」と言い、命令を何度も繰り返した後に「左!」と太鼓を打つと、また宮女たちはどっと笑った。
孫武は「命令が既に明確なのに実行されないのは、指揮官の罪なり」と言って、隊長の二人を斬首しようとした。
 壇上で見ていた闔閭は驚き「将軍の腕は既によくわかった。余はその二人がいないと飯もうまくないので、斬るのはやめてくれ」と止めようとしたが、孫武は「一たび将軍として任命を受けた以上、陣中にあっては君命でも従いかねる事がございます」と闔閭の寵姫を二人とも斬ってしまった。そして新たな隊長を選び号令を行うと、今度は女性部隊は命令どおり進退し、粛然声を出すものもなかった。
 孫武は「兵は既に整いました。降りてきて見ていただきたい。水火の中へもゆくでしょう」と言ったが、闔閭は甚だ不興で「将軍はそろそろ帰られるがよろしい、余はそこに行きたくはない」と言った。孫武は「王は言を好まれても、実践はできないのですね」と答えた。以後、闔閭は孫武の軍事の才を認めて将軍に任じたのである。

 前512年、孫武は将軍に任じられ、楚国の衛星国であった鍾吾中国語版)国と国を攻略した。闔閭は勝利に乗じて楚国に進攻しようとしたが、孫武は「楚国は衰えてもいまだ強大です。また呉は戦いが続き兵が疲弊しています。今、楚を攻めるのは上策ではありません」と進言した。闔閭はこの意見に従い、また伍子胥の献策により、小部隊で楚の国境を絶えず挑発し、楚の大軍を国境に貼りつかせ、楚の国力を消耗させる作戦をとる。
 6年後の前506年、楚は呉の保護下にあった地方領主・成公昭侯を攻め、二人は呉に救援を求めた。機が熟したと考えた闔閭は孫武と伍子胥を左右の将として軍を発し、呉と楚の両軍は漢水の河畔・柏挙で会戦する(柏挙の戦い)。孫武の陽動作戦によって楚軍主力は別の地域におびき出され、呉軍本隊が現れ首都に向かうとの情報で急遽転進してきたため、戦場に到着したときには強行軍の連続で既に疲弊しきっていた。三万の呉軍は二十万の楚軍を大いに破り、さらに進撃して五戦して五勝し、十日のうちに楚の王都・郢城を陥落させて楚の昭王を逃亡させる。強国・楚の大軍を寡兵で破ったこの戦いにより孫武の名は中原に轟いた。
 その後、楚の臣の申包胥に逃亡し、彼の策によって秦が呉国を攻めたので、呉軍はやむなく楚から撤退した。 以後呉は北方の斉、を威圧して諸侯の間にその名を知らしめたが、それらの功績は孫武の働きによるところが大きかった。
 前496年、闔閭は孫武の意見を容れずを攻めたが苦戦に陥り、闔閭は敵の矢による負傷が悪化して死亡した。孫武は伍子胥とともに太子の夫差を補佐して国力を養い、のちに呉は夫椒で越を大敗させ雪辱を果たした。
 孫武の後半生については記録が残っていない。後漢の『載記』が引く『呉越春秋』夫差内伝によれば、孫武は讒言する者があって辞職を願い出たといい、以後の呉国に関する史書からは、孫武に関する記述が途絶える。その後夫差は次第に慢心するようになり、讒言によって孫武の莫逆の友であった伍子胥に、剣を賜り自決させる。孫武もまた誅殺されたとも、隠棲して実戦経験をもとに『孫子兵法』の改良に取り組んだとも言うが、何れも伝承の域をでない。
 孫武の墓もはっきりしていない。蘇州の北にある陵墓が孫武のものであるという説もあるが確定していない。

 孫武が実在した武将なのかどうか、古くから中国史学者の間では論争が続いていた。そもそもで大活躍した武将にもかかわらず、呉に詳しい『春秋左氏伝』に孫武の話が全く登場しないというのが不自然である。その上、孫子兵法は兵法十三編のはずだが、『漢書』「芸文志」ではなぜか八十二編になっているなど謎が多いためである。
 既に北宋の兵法家・梅堯臣が、「戦国時代の話のようだ」と孫子兵法と孫武の関係を疑問視していたが、南宋葉適はさらに一歩を進めて、以下のように孫武非実在説を唱えた。「春秋時代に、他国の人を将軍にした話は全くない。呉の人でもない孫武が、なぜ将軍になれたのだろうか?『春秋左氏伝』に孫武が登場しないのも、おかしいではないか。(結局)孫子の兵法は、春秋の末、戦国の初めの、名もない山林の隠者の作であろう。呉で大活躍したなどというのは、兵法家連中の大げさなデマ、でっちあげだ。闔閭の姫を斬った話など、実に異常ではないか。まったく信用が置けない」(『古今偽書考』に引く葉適の説)。
 この説に賛同する者は多く、全祖望斎藤拙堂斉志和らなどが孫武非実在説の学者は複数いる。理由を整理すると、『史記』以前の『春秋左氏伝』等の有力な古籍に孫武の名が全く見られないこと、「武」という名が出来すぎていること、『漢書』「芸文志」には「呉孫子兵法八十二篇図九巻」あって、現行の十三篇の孫子と符合しないことなどである。ただし、この孫武非実在説が正しいかどうかも論争の対象となっていて、『古今偽書考』では、「では史記の孫武の記述はウソなのか?孫武は実在したのか?しなかったのか?もはや古代のことで全くわからない」と、さじを投げている。
 彼らは『史記』などの古文献の記述の真実性を疑問視し、更に孫子の文章の中に戦国時代の思想である「形名」「五行」[7]などが登場する上、春秋時代の合戦の有様と孫子の文章が相違している点が多いことを論じている。この一派を「疑古派」と称し、彼等により『孫子』は孫臏の著作とするもの、ひいては孫武自体が架空の人物であるとする見解が、末期から現代にかけて有力になったこともあった。1980年代頃までの孫子の解説書は概ね当時主流のこの立場に拠り、孫武は架空の人物と断定した記述がある。例えば、1961年に出版された貝塚茂樹の『諸子百家』(岩波新書)では、「孫子の兵法は呉の軍師孫武の作だというのは全くのデタラメで、孫臏自身の作品に他ならないことが最近明らかにされた」と断じている。だが1972年山東省臨沂県で発掘された一群の銀雀山漢簡で『孫子兵法』十三編と、孫臏の著した兵法書(『孫臏兵法』)の竹簡が発見された。さらに分析の結果『孫子』十三編は『孫臏兵法』とは別物であることが証明され、孫武の実在が確かめられたのである(金谷治の説)。
 ただし、孫武の事跡に関する史実性に関しては論争が継続しており決着を見ていない。研究者の一部からは、『史記』孫子伝の信憑性が疑われている。特に孫子勒姫兵(孫子勒兵)の故事については「指揮に従わないというだけで隊長を処刑することも、その他の行動も孫子兵法に合致しない。この話は孫子の兵法を曲解した後世の者の創作であろう」(天野鎮雄、要約)、「説話的で、史実とは考え難い」(金谷治、同)等の意見も有力である。金谷治は、『孫臏兵法』に「孫氏の道」とあることから、孫武を中心にした孫氏学派のような兵法家集団がおり、今の孫子兵法は孫武の作に兵法家たちが付加して成立したものだと考えており、天野鎮雄は、孫子兵法の重複部分を削ったものが、おそらく孫武の真作に近い部分ではないかと考え、「原孫子」を推定している。

 上記の『新唐書』「宰相世系三下」によると孫一門は、田完から五世の子孫である孫武の祖父が軍功あって孫姓を賜ったことに遡る。
それによると、孫武につき「(孫)は武を生む。(武の)字は長卿。田・鮑四族の謀、乱を為すを以て,呉に奔り,将軍となる。三子あり、馳、明、敵なり」とし、孫武には孫馳孫明孫敵という三人の息子がいたと記述する。次男の孫明は呉の富春郡を賜り、後の富春孫氏の祖となったと伝わる。富春孫氏はまた富春龍門孫氏と称され、『四庫全書』によれば三国時代孫堅孫策孫権父子はこの家系とされる。
 一方で『三国志』の著者陳寿は「孫堅は孫子の子孫だといわれる」と曖昧に記し、さらに南朝宋代の『異苑』は、孫堅の父は「瓜売り」の孫鍾なる人物であったとする。同時期の『幽明録』(現在は散逸)や、東晋裴啓の『裴子語林』にも孫鍾の名が記されているなど反証も多く、孫堅が実際に孫武の子孫かどうかは疑問が多い。
 現在の浙江省杭州市富陽区南部のある村では、住人の9割が「孫氏」を名乗り、富春孫氏の末裔を称する。村に伝わる族譜によると、客家孫文もまた富春孫氏に連なるという。中国政府の調査によると、この族譜は清代のものである[8]

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