共同親権〜「養育費の不払い」と「子どもの貧困」について当事者(子ども)の立場から思うこと〜
共同親権の事が気になって毎日ソワソワしている椿です。
本来、このnoteでは、田舎の子育て・趣味の着物(お下がりとか古着)・Voicyの感想等を気ままにのんびり書いています。普段の私は楽しい事や面白い事が大好きです。ゆる~い感じの記事が多いです。
そんな私ですが、実はかつて「父親のDVが理由で離婚し、養育費も貰えなかった家庭の子ども」でした。父親のDVについては、こちらのnoteで少し書かせて頂いています。
共同親権では、様々な問題が指摘されています。かつての当事者として、いろいろ思い出しながら、現在渦中にいらっしゃる人達の事を案じています。
私がいろいろな情報に触れて思っているのは、子どもの目線、子どもの立場に立って議論をしている人が、どれくらいいるのだろうか、という事です。
今回もいろいろ迷いましたが、かつてのDV家庭の子どもの立場として、
共同親権で取り沙汰されている「養育費の不払い問題」と「子どもの貧困」について、私が「子どもの立場」で思っている事を書いてみようと思いました。
子どもの貧困〜単独親権であれば使える制度が利用できなくなる〜
共同親権では「子どもの貧困が増える」と言われています。単独親権であれば受けられるはずの制度を使用できなくなるからです。
例えば
離婚が成立して共同親権になった場合、例え別居していたとしても、父母の収入を合算して計算するので、高校無償化の対象外になるという事を知りました。
私は今、忙しいながらも穏やかな毎日を送ることが出来ています。
何とか這い上がってここまでやってこれたのは、いろいろな支援制度があったおかげです。
それらの制度を受けられなくなる子どもが増える。
かつて「子どもの貧困」を体験した私としては、それは放置できない内容です。それは「何とか這い上がろう」という気力すら奪うことに他ならないと思ったからです。
「子どもの貧困」について知ってほしい
子どもの貧困は、子どもの意欲を奪います。
生きる気力を奪っていきます。
そんな子供を増やしてはいけないと、私は強く思います。
共同親権は誰のためのものなのか、考えて欲しいです。子どもの貧困について、少しですが、書ける範囲で思う事を書いていこうと思います。
どうか、子どもの貧困について知って下さい。このnoteはそのための材料にして欲しいと思っています。
養育費とは「子どものためのお金」
私の父親は養育費をくれませんでした。
一度も、一円も、支払われたことはありません。
DVから逃げ、養育費も貰えず、怪我の後遺症で通院を余儀なくされていた母と一緒に、当時15歳だった私は他の姉妹達と必死に頑張って生活していました。
養育費についての定義が法務省のHPに記載がありました。
私は養育費を
「子どもが安心安全な環境で過ごし、勉強し、自立していくための費用」
「子どものために使うお金」と理解しました。
我が家もそうでしたが「会わせないなら養育費は払わない」という主張を時々聞きますよね。
この主張は、かつて子供だった私から言わせれば
「お前に使うお金なんてない」
と言われているようなものです。
私(子ども)はお金を掛けてもらう価値がないのか。
その程度の存在なのか。
大人はいつだって自分勝手。
子どもより、ずっとずっと、ずっとずっとずっと自分勝手じゃん。私はいつだって置き去りにされるんだ。
それが、子どもが、私が、30年前にも、そして、現在の養育費不払い問題を見ていても、ずっと思っている事です。
「離婚が成立したら終わり」ではない
約30年前に両親が離婚した時、子どもは私を入れて4人でした。私は高校一年生。15歳でした。一番下の妹は4歳でした。
離婚は「成立したら終わり」ではありません。そこからが新たなスタートです。
母はDVの後遺症で通院を余儀なくさていて、思うように働く事が出来ませんでした。祖父母の助けもありましたが、急に増えた5人分の生活費を賄いきることは出来ません。母子手当があっても足りませんでした。
怪我もあり、末の妹が幼く、母はフルタイムでの仕事に就くことは出来ませんでした。
生活を支えるために私もアルバイトも始める事にしました。
いろんな事をガマンしました。
お金がかかる部活には入れない(当時全員部活に入らないといけませんでした)から、部活を選ぶ基準が「やりたい事」ではなくて「費用」になりました。
友達の誘いも断るようになりました。
22時までバイトをして、その後に勉強。
遊ぶ時間なんて無いです。
料理の材料を買うお金がなくて、おかずは納豆だけという日が続きました。
時々、バイト先の近くにあった祖父母の家で夕飯を食べさせて貰い、おかずを貰って帰っては家族の夕飯のおかずにしましたね。祖父母の家が料理屋だった事が、とても有り難かったです。
私たちがそんな毎日を送っている間、養育費は全く支払われませんでした。
一度も、1円だって支払われませんでした。
「子どもの貧困」は子どもの意欲を奪う 〜「ガマンしなきゃ」の連続〜
時間をかけて、母の体調も、生活も少しずつ良くなっていきました。おかずが作れるくらいに。そうなるまでとても大変でした。でも、父親の怒鳴り声や暴力に怯える毎日よりはずっとずっとマシでした。
でも、
小さなガマンや大きなガマンが、毎日毎日積み重なっていきました。
大変なのが分かるから。
欲しい物もいっぱいあったし、やりたい事もいっぱいあった。
でも言えませんでした。
そうするうちに、いつの間にか挑戦する気持ちすら湧かなくなっていきました。
「今は大変なんだからガマンしなきゃ」が日常になるから。
想像した事がありますか?
「子どもの貧困」は子どもの「やってみたい」という意欲を奪い、いろんな体験の機会を奪うという事なんです。
言外に、環境に、社会に
「お前には無理だ。諦めろ」と言われているのと同じです。諦める事が日常になるんです。「ガマンしなきゃ」と思うから。
高校3年生になった時、私が母に言えた唯一のワガママは
「大学に行きたい。全部自分で何とかするから」でした。
何とかしましたよ。
意地です。
バイトと勉強をひたすら頑張りました。
入学試験の1週間前までバイトをしていました。合格したとしても入学金が払えないと困るからです。
受験したのは1校だけ。私大の夜間部でした。受験料だって払うのが精一杯でした。
数学が苦手だったので、国公立の大学は諦めました。苦手科目をどうにかする時間はなかったから。私大だったら一般入試で合格出来るかもしれないから、それに掛ける事にしました。
学生時代も、昼間アルバイトをしながら夜遅くまで大学に通いました。貸与ですが奨学金も貰えたので、そのお金とバイト代で学費をどうにかしていました。親に大学の学費を出してもらったことはありません。
大学に進学した理由は、教員免許が欲しかったからです。
中学の時の英語の先生が凄く面白くて、英語の勉強をしている時は凄く楽しくて。
こんな先生になりたい。
教員免許が欲しい。大学に行きたい。
目標があったから頑張れました。
結局、4年間でいろいろあって教員にはなりませんでした。でも、大学で子どもの福祉や権利、発達心理学等について勉強していくうちに、少しずつ自分の状況を客観的に見られるようになっていきました。
もう、震えましたね。
「私(子ども)にこういう権利があったのなんて知らなかった」とも思ったし
「ああ、こういう福祉制度に助けて貰っていたのか」とも思いました。
それだけでも、大学に行った価値はあったと思っています。
私は大学に進学しましたが、本当は高校を卒業したら留学したいと思っていました。
でも、経済的な理由で留学を諦め、英語の勉強を止めてしまったんですね。
今考えたら、もしかしたら何とか留学出来る制度があったのかもしれない。
ワーキングホリデーとかを使ったって良かったかもしれない。
もしもあの時、誰かが
「あなたもまだ子どもなんだよ。自分のやりたい事をやって良いんだよ」
「お母さんは元気になったんだから、もう自分の好きな事をやっていいよ」
と言ってくれたら、もっと違う道を選べたかもしれない。
でも、そんな事を言ってくれる大人は、私の周りにはいませんでした。
考える余裕も無かった。
それに、
「もし留学して私が海外に行ったら、家族がもっと困るかもしれない。バラバラになっちゃうかもしれない」
という気持ちが強くて、言い出せませんでした。それが一番怖かった。
そうしてるうちに、本当に自分がやりたい事が、どんどん分からなくなりました。気持ちにずっと蓋をし続けてきたから。
そういう子ども達を生み出すのが「子どもの貧困」です。
考えたことがある人はどれくらいいますか?
「子どもの貧困」は子どものせいじゃない
「貧困は自己責任」という言葉を聞いたことはありませんか?
私はこの言葉が好きではありません。
かつての私の状況は、自己責任なのでしょうか。「子どもの貧困」は子どものせいなのでしょうか?
母子家庭の母親は、ただでさえ男女で賃金格差があります。小さい子どもがいたらフルタイムで働けない場合が多いと思います。
現在も養育費はほとんどの人が貰えていません。
「調停して申し立てれば大丈夫」とかも言われるけど、実際はそんな時間はないです。そのために何度も休んで解雇されたら更に困る。
ただでさえ離婚に至る迄の間に心身ともに疲弊しきっていて、毎日の生活に必死なのに。調停を起こすハードルは凄く高いです。凄く凄く高い。
こういう状況に置かれる子どもの貧困は「自己責任」なのでしょうか。
違うでしょ?
「子どもの貧困」は自己責任なんかじゃないでしょ?
子どもの私はどうすれば良かったの?
もし、塾に行ける余裕があって、バイトにあてていた時間も勉強出来たら「もっと違う未来があったのかもしれない」と思った事もいっぱいありました。
他の子たちが「当たり前」にやっている事が出来ない。
「強い」「頑張り屋」という言葉で括られる。違うよ。そうしないといけないから、そうしないと這い上がれないから歯を食いしばってやっているだけだよ。強くなんかない。
ガマンしないと這い上がれないから。
でも、
本来子どもは、ワガママ言ったり、友達と遊んだり、安心できる環境で勉強したり、好き嫌いを言って叱られたり、甘えたり、そういう事をして良いはずです。
何でもない様なふりをしながら、
やりたい事を全部全部隠して、気持ちに蓋をして過ごしている子どもが、絶対に、今もいるんです。
その子達は、いずれ自分の本当の気持ちや やりたい事も分からなくなります。
「無理だ」「無理だ」「無理だ」と、何度も何度も何度も現実を突きつけられるから。
子どもの貧困って、こういう事なんです。
共同親権の問題で「子どもの貧困が増える」という事を思い出して下さい。
養育費が貰えなくても私が這い上がれたのは、いろいろな制度と奨学金があったからです。それが無かったら這い上がる事はきっと出来ませんでした。
共同親権になって、単独親権であれば受けられるはずの様々な制度が利用出来なくなるのに、敢えて共同親権にする理由は何なんでしょう。私には分かりません。
振り回されるのは子どもです。
子どもの貧困は、子どものせいではありません。絶対に違います。
大変な状況に置かれた子ども達に必要なのは、安心して自分の未来に希望が持てる環境です。そこに、必ずしも「両親」は必要ありません。
共同親権について、親の権利ではなく、子どもの安全・権利が最大限に尊重される事を望みます。
かつての子どもの立場として、現在同じ状況で苦しくても声をあげられない子ども達が、ちゃんと救われる事を望みます。