氷河期世代と「生前死別」。

一番最初の就職氷河期世代の僕は既に50歳を過ぎている。
身内や親戚との死別も増え、青春時代に憧れた大人たちも次々と鬼籍に入っていく。僕自身もいつ世を去っても不思議ではない年頃となった。

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就職氷河期世代の密かな問題は、学生時代の友人と縁が切れているのが当たり前、という事だろう。
就職氷河期は、学生時代には平等だった立場が、就職できたか無職になったかで身分が二分される。ましてや就職氷河期の初期の頃にはまだバブル景気の頃の「就職は出来て当たり前」という常識しかなかった時代だ。

そんな時に無職になってしまった氷河期世代は、恥ずかしくて外には出られなかった。平日の朝9時~夕方5時の時間に街中をふらふら遊び歩いている大人がいなかった時代だ。学生でも主婦でもない大人が仕事でもないのに日中の町を歩いていれば不審者のように目立った時代だ。
もちろん地域によってはそんな事は無かったという人もいるだろうし、外どころか家族と顔を合わせることも難しく部屋に篭った人も多かっただろうと思う。

ともあれ、氷河期世代であるが故に、学生時代の友人と縁が切れたままという事は多いと思う。
僕の人生では高校と専門学校野の同窓会の手紙がそれぞれ1回だけ来た事があるが、無職やフリーターの身分では恥ずかしくてとても顔を出せず、欠席の返信もしなかった。いっそ同窓会の手紙は誰にも届かなかったと思われたかった。
また僕は学生時代に別段人気者でもなかったからか、街で偶然学生時代の知り合いと遭遇するというイベントも殆ど発生しなかった。20代の頃には幾度かあったかもしれないが、それぞれ目立たぬよう無難に切り抜けてきたはずだ。
そして僕は既に50歳を過ぎていて、僕もかつての学友達も随分と歳を取っている。もう顔つきも変わっているだろうからすれ違ってもお互いに気付かないだろう。

だからといって、僕は学生時代の友人達の事を嫌っているわけでも避けているわけでもない。
みんな元気にしていれば良いなと思っている。

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最近の僕は生活費を稼ぐ為という理由だけで派遣で日雇いの仕事を延々と続けている。
なにか趣味の為に金を稼いでいるわけでもなく、家族を養う為とか彼女と付き合う為とか友人と遊ぶ為とかという理由も無い。
孤立無援の独身の就職氷河期世代が50歳を過ぎると、趣味への熱も醒めてくる。健康で長生きできたとしても身体は衰え続けていくし、既に中年というより初老の人間が一喜一憂したところで何の価値があるのかと思ってしまう。

そんな何も無い日々を連綿と生きていると、寝ている時に見る夢が日常の一部になっていく。もちろん「若者が将来に対して抱く夢」とは別物のほうの夢だ。眠ればタダで見れる夢。

大体において、夢の中でも普段の日常と大差が無い平穏で怠惰な時間が流れる。時々はSNSに書き込みたくなるほどリアルで奇抜な夢を見る事もあるが、大抵は夢の中でも僕は僕のままで、夢の中でも何も出来ないまま、夢の中の非実在の日常を普通に過ごす。
そして稀に、旧友と出会ったりする。

夢の中で出会った旧友が、現実世界で元気にしているかどうかは大体において不明のままだ。
結婚して子供がいるかもしれないし、既に他界しているかもしれないし、ググればすぐにSNSのプロフィールが表示されるのかもしれないが、夢の中では友人であっても現実で30年以上も縁が切れていればそれは十分に赤の他人だ。かつてどれほど楽しい時間を過ごしていたとしても。

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または夢の中で、既に亡くなった人達と顔を合わせる事もしばしばある。
夢の中での死者との再会は、ドラマティックな展開にはならない。「生きていたのか!」と喜んだりもしない。実家のキッチンに行く途中で親とすれ違う程度の「あ、そこにいたんだ」程度の感慨だ。

その夢の中の雰囲気で、死別した人と普通に喋る事もあれば、すれ違ったまま様子を横目で見ているだけの事もあるし、そのまま通り過ぎてしまう事もある。
現実では生きていても死んでいても、夢の中で元気な姿を見れたのなら、それが全てというように思う。

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例えばSF的な妄想をすれば、かつて死別した誰かと現実でバッタリ再会したとする。
死んだ筈の誰かが「いやぁ、そんな事もあったけど、いまはこんな感じさ」などと言ったり、そのまま少し話し込んだりしたとして、別れた後日にやはり確実に亡くなっていて、話した筈の故人の正体が不明になったとする。
幽霊とか、脳が生み出した幻覚とか、様々な可能性と理屈付けは出来るだろう。

しかし結局、理屈をつけたところでそれほどの意味が無い事に気付く事となるだろう。現実に生きているかどうかより、話し込んだ会話の内容のほうが大切だったりするからだ。

生きている人間と不愉快な会話をする現実もあれば、死んでいる人と有意義な会話をする非現実もある。

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なので最近の僕は、そういった人達を「生前死別」として考えている。

きっと生きているであろうけれどもう会う事のない旧友知人達、再会したとしても既に別人であろう人達を、既に死別して夢でしか出会えない人達と同じカテゴリとして考えている。

現実の日常ではまったく思い出す事の無かった旧友と、夢の中でバッタリ再会する事も稀にある。夢の中で旧友の存在を思い出すのは、夢の中で故人と出会う事と似ている。というか区別が出来ない。きっとご存命の筈だけど、こうなるともう現実に生きているかどうかは些細な事のようにしか思えない。

なので生きていてもそうでなくても、記憶の中だけの知人は「生前死別」と考えるようになった。
現実でも夢の中でも、元気でいるならどちらでもいい。

そして現実に生きている筈の僕も、旧友達の中で「生前死別」の存在となっているだろうとも思う。
僕が旧友と積極的に出会えるような御身分になれる可能性は既に無く、夢を見ながら残りの現実を粛々と生きるだけの毎日を過ごすばかりだ。

だからといって僕自身が夢の中だけの存在になりたいわけでもないが、現実を生きる時間がどれほど残っているのかは心配になってくる年齢になってしまったんだなぁとは思う。

さてネットを眺めている時間は現実なのか夢の中なのか、ネットで見かける人達は現実なのか非現実なのか、ネットの中での「生前死別」もちらほら増えている感じがあるが、どちらにせよみんな元気でいて欲しいと思っている。


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