ポピュリズムの時代・石丸伸二安芸高田市長問題から兵庫県知事問題へ
石丸伸二安芸高田市長問題のまとめ
予想は半分当たって半分外れた
私の仮説は、石丸市長は、市長になってすぐに、自分は市長に向いてないと気がついた。そこで、ひろゆき的位置(特にユーチューバー)を目指すようになったというものである。この立場によると、政策実現よりもともかく話題づくりである。この仮説から見ると、安芸高田市における一連の行動がうまく説明できる。
ところが、次の話題づくりである東京都知事選挙に出て、小池知事に迫る第2位になり、思わぬ時代の寵児になった。そこで自分を見失ってしまい、その勢いで、「政党」をつくって、政治的リーダーの位置に立ってしまった。ひろゆき的地位という基本は変わっていないと思うが、ともかく政治リーダーなったのだから、この部分では、私の予想が外れたことになる。
石丸市長が政治的リーダーになるとは思っていない
これはすでに書いたので、繰り返しになるが、私は石丸市長がポピュリズムのリーダーになると考えてはいない。ナチズムの歴史を見ても、彼らが行った政策提案は実に凄い。たしかにドイツ国民を夢中にさせるものだった。
ところが、石丸市長は、安芸高田市長のほぼ4年間で、そのほとんどが議員悪玉論に終始し、しかもいつまでも問題提起にとどまっていて、住民を歓喜させるような政策提案は何ひとつ行っていない(この点についてkindleに書いた)。
だから、普通の市民を歓喜させる政治的リーダーにはなれないと思っている。政治リーダーのように見えても、すぐに失速すると思っている。
同志(仲間)をつくるのが苦手である
これは、安芸高田市の4年間を見た上での私の確信である。いろいろ理由はあるが、何よりも、石丸市長ご本人は、仲間をつくるのが苦手だからである。上から目線やあるいは挑発的に話すことはできても、相手と膝を交えて、にこやかな話をして、距離を縮めていくことができない。
だから、そばにいた人も、結局、離れていく。そんな自分に、本人は、きっと悩んでいると思うが、行くしかないと思っているのだろう。
SNS時代におけるポピュリズム形成のひとつの道すじをつけた
石丸市長が、ポピュリズムのリーダーになることは心配していないが、SNS時代におけるポピュリズム形成のひとつの道すじをつけた(その手法を示した)という点は、注目すべきだろう。だから、noteには次のように書いた。
「内実がほとんどないにもかかわらず、SNSを駆使し、人々を熱狂させ、信奉させている。実際、都知事選挙では、驚異的な得票を得た。石丸流のSNSに乗せられた人の声が世論をつくっている。「信者」と揶揄されているが、一時的であっても、そうした「応援団」をつくることができるという点は凄いと思う。それをまねる人が出てくると思うと脅威でもある。」
きちんと分かりやすく記録・保存するため、kindleに書いた
最後に、「それをまねる人が出てくると思うと脅威でもある」と書いたが、その前に十分な準備をと考えてnoteを書いたが、間に合わなかった。やはりというか、案の定というか、次々から次に、SNS時代の新しいポピュリズムがあらわれることになった。
しかも石丸型ポピュリズムよりも、バージョンアップし、より難敵となって現れた。その典型例が兵庫県知事問題である。
そこで一念発起して、そもそも発端である石丸伸二安芸高田市長の問題をきちんと、分かりやすく整理し、記録・保存するために、kindleにまとめてみた。
今後も、SNS時代の新手のポピュリズムが、次から次に現れてくると思うが、ここが出発点のひとつだったのだと、確認されるときが来ると思うからである。
『ポピュリズムの時代・石丸伸二安芸高田市長を応援する人たち』
石丸問題の発展系としての兵庫県知事問題
兵庫県知事問題
SNS時代において、市民側が十分に準備ができないなかで起こったのが、兵庫県知事をめぐる一連の騒動である。
現時点で明確になったのは、陰で斎藤知事を応援する維新の議員たちが、真偽不明の個人情報を入手し、あるいは作成し、それをSNSで流すことで、斎藤知事再選の流れをつくり、実際に、再選させたということである。
公人としては許されない行為であるし、人としてもやっていいけないことであるが、実際に行われた。
市民の劣化とSNS
この一連の兵庫県知事問題で顕在化したのは、情報に翻弄される市民であり、情報を受け取る市民の劣化である。
情報による翻弄では、知事のおねだりが話題になると一気に批判するほうに行き、今度は、知事が利権を暴き正義の人になると一気に知事を応援するというぶれの大きさである。
正常の判断力があれば、おねだりと言われるものが、社会に暮らしていれば、よくある社会的な儀礼に属するものが大半であることが分かるし、また、利権を暴くとなどということも、総務省に長くいた人が、そんな発想や訓練など受けていないことは、すぐに分かるはずである。
そもそも普通に社会に暮らしていれば、善か悪かの二項対立では、目の前で起こっている問題を解けないことは、すぐに分かるはずではないか。
全体に日本人の劣化が進み、そこにSNSが入ることで、翻弄されてしまったというのが、今日の兵庫県知事問題ではないか。
新自由主義と結びついたポピュリズム
石丸市長はポピュリズムや反知性主義の風を捕まえて、ネット市民をエスタブリッシュメント(議会や新聞社)への異議申し立てに向かせたことが、出発点であるし、成功の秘訣である。
ここで私が心配したのは、この動きが、ナショナリズムに結び付くことだったが、今、日本で起こっているのはそうではなく、新自由主義と結びついたポピュリズムのほうである。
ポピュリズムとナショナリズムとの親和性だけに注意を払っていては、今日のポピュリズムの問題性を理解できないし、ポピュリズムの流れに抗することはできないということだろう。
政党がやり始めたポピュリズム
石丸市長も新自由主義と親和性が高いが、今起こっているのは、これまでなら石丸市長の個人プレーだったポピュリズムを今度は政党がやり始めたことである。
その表れが、国民民主党の103円の壁問題であり、そして、今回、維新がやった兵庫県知事問題である。
私の関心は、兵庫県知事にまつわるポピュリズムであるが、次は項を改め、まずは国民民主党の103万円のほうから、ポピュリズムの問題を考えていこう。