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愛する能力の定義と、愛する能力が無い癖に愛する振りをしている人

愛するとは、どういう状態だろう。
愛する能力が有るとは、どういう状態だろう。

あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。

ルカによる福音書 11:11

子供の欲しがるものを与えられないような中途半端な親を咎めているのだろうか。
あと、子供というのは、神の子のイエス・キリストも指しているから、神が求めている「神に立ち帰る行為」に対して「背教」で返すのは、悪行だとも言っているのだろう。
欲しいモノを与えられないどころか、必要なモノすら与えられない。
個室が必要なのに、個室を与えられない親が居る。
少なくとも、誰にも見られないような祈りの部屋は必要である。

だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

マタイによる福音書 6:6

必要なモノすら与えられないなら、さっさと親権を手放すべきだ。

子供を愛していないのに、愛する振りをする。
子供を愛している振りをしないと世間体に悪いから愛する振りをする。
本当に子供を愛していたら、自分に育てる能力が無ければ、子供のために恥も外聞も捨てて施設に頼る。

大家族みたいに何十人も雑魚寝をするのは異常である。
子供の適切な人数は、子供の全員に個室を与えられるかどうかで判断できる。

なんだったら、別に祈る部屋だけ2畳ぐらい与えれば良い。
寝る部屋は雑魚寝でもいい。

個室がなくて育つと性根が歪む。
異常者になる。
異常者だけの社会だから異常に気付かない。
ディストピアで生まれ育った人間は、自分がディストピアに住んでいる事実に気付かない。

世間体を気にして養っている振りをする。

神は世を愛してはならないと言っている。

世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。

ヨハネの手紙一 2:15

世を愛しているように見えて、実際は自分の世間体を気にしている。
世を愛している振りをしているけど、実際は世を愛していない。
世を愛すると言っても、実態は自分の見栄を愛しているのである。
世を愛しているように見えて、世に押し付ける。
実際は、まともに子供を育てられなくて、世間にお荷物を押し付けているから、悪い。
施設にでも預けるべきだ。
親が恥を掻きたくないから、社会に助けを求めない。
親が見栄を張るために、子供を犠牲にしている。

世を愛してはいけないし、世を愛している振りをしてもいけない。
世を愛してはいけないけど、世に害を為してもいいなんて書いていない。
世を愛している人間は、世を愛していない。
世を愛しているなら、世に害をまき散らすわけがないからだ。
世を愛している人間は、神を愛していないし、世も愛していない。
世を愛する人間は、愛する能力が欠落している。

神を愛せる信者だけが、世を愛する能力が有るけど、神の信者は世を愛さない。
愛する能力があるかどうかも考えない非信者は、世を愛するのである。
愛する能力のある人は、神を愛して、世を愛さない。

養う力がないのに、養う振りをする。
育てる力がないのに、育てる振りをする。
売り出す力がない癖に、売り出す振りをする奴が存在する。

子供を育てるのは免罪符ではない。
神の信者は、免罪符など存在しないのが判るから、免罪符を求める生き方はしない。
非信者は、自分が神に対して罪を犯したと無意識に感じているから、免罪符を欲しがる。労働を免罪符にしたり、愛国を免罪符にしたり、被害を免罪符にしたり、正義を免罪符にしたり、子育てを免罪符にしたりする。

何が正解なのか。
聖書に正解が書いてある。
他人の言う事に従っても、誰も助けてくれない。
人間は責任を取ってくれないし、取る能力もない。
神の言う事に従えば、神が責任を取ってくれる。
人の言う事に従うと、自分で決めた事は、自分で背負わないといけない。

サタン側は人々を地獄へ道連れにするのが目的である。
そのため、人々に愛する能力が身に付かないように洗脳するし、愛する能力が無いのに愛する振りをするように仕向ける。
そんな人間だらけになっても社会が壊れないようにシステムを構築する。
愛する振りの人間だらけでも社会が崩壊しないように、サタン側が莫大なエネルギーを人々に与えているのである。
何百年前に比べたら、一人当たりの消費エネルギーは100倍を超えている。

愛するとは、天国に入る方法を教える事。
敵に天国へ入る方法を教えるなら、愛する能力が有ると言える。
聖書で「敵を愛しなさい」と書いてあるからだ。

マタイによる福音書 5:44
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
ルカによる福音書 6:27
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。

ルカ福音書 6章32節33節 新共同訳

憎い敵を「地獄で永遠に焼かれる危険」から救おうとするなら、愛する能力が有ると言える。
救えても救えなくても救う行動が大事だ。
敵を永遠の幸せである天国へ導こうと行動するのが、敵を愛していると言えるし、愛する能力が有ると言える。
敵を愛せるのだから、仲間も愛せる。

悪人の敵に対して「そのままの生き方では地獄へ落ちるから止めろ」と警告するのが、敵を愛している事になる。
敵の悪行を咎めるのが敵を愛している事になる。

俺が他人の悪行を指摘する時は、定義して、咎めて、改心を促す意図だと思って欲しい。
思考ではなく、感情で見下げた相手だと思う時はあるけど、それも一応は、相手の改心を促す方向へもっていこうとは努力している。
行き過ぎた言葉は、謝罪する。申し訳ありませんでした。
未熟だったから、元々の価値観で暴走してしまった。これからは気を付ける。

最初の問いの「愛する状態」とは、天国へ入る方法を教える事。
「愛する能力が有る状態」とは、敵に天国へ入る方法を教える人間性の事。

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