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使徒の兄ちゃん パウロの牢屋で天啓の感覚はおかしい 地の獣と野の獣 原語解釈 謝ったら死ぬ病 和解してない

1、謝ったら死ぬ病
謝ったら死ぬ病は、自己愛性人格障害なのだろうか。
事実かどうかで決めないで、自分が受け入れたいかどうかで決めるのでは危険だ。
信じたいものを信じるようでは危険である。
選り好みで他人の聖書解釈を決めるは危険である。
「人間は信じたいものを信じる」という言い回しがある。
信じたいものを信じる - 検索 (bing.com)
信じたいものを信じるとか、心理学でいうところの確証バイアスである。
確証バイアスとは、自分が正しいと思いたい、自分は間違っていると思いたくない、自分が悪いとは思いたくない、という心理である。
確証バイアス - 検索 (bing.com)
自分に都合が良いモノに飛びつくから、騙される。
自分の都合で生きているから、騙される。
自己中で生きているから騙される。
神を信じて、聖書で書かれている神の都合で生きれば、死後は天国へ入れるし、地上でも騙されないから、地上でも幾倍にも受けられる。

2、原語解釈
原語解釈も良いけど、人間は気持ちを完全に理解することはできない。
完璧な人間は存在しないからだ。
人が神の気持ちを判ろうとするのは必要な事だけど、完全に判るのは不可能である。
俺も余裕が出てきたら、外国語で解釈しようとは思っている。
神が自らの気持ちを完全に理解して、完璧に文章化しても、完璧な人間は居ないから、人間が文章を完璧に解釈する事は不可能である。
これを判った上で、原語解釈をする必要がある。
神の気持ちが知りたいから原語解釈したいのだろう。
どの聖書を読めば良いか判らないなら、まずは母国語の聖書で神の気持ちを知るところから始めるのが良い。

3、牢屋で天啓
パウロが牢屋で天啓を受けたというけど、本当だろうか。

こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。
その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

使徒言行録 23章10節11節 新共同訳

使徒言行録のこの辺りになると、ほとんどパウロの証言が証拠になっているから、全く当てにならない。

そもそも、神が牢屋で天啓を与えたなんて、パウロ以外で事例があっただろうか。
ダニエル書でのダニエルは、獅子の洞穴に入れられ、牢屋ではないし、そもそもダニエルに対して天啓したかな。

神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」

ダニエル書 6章23節 新共同訳

天使を遣わせただけだ。
ペトロが投獄の時は、「天使がわき腹をつついて」と書いている。

すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。
天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、「上着を着て、ついて来なさい」と言った。

使徒言行録 12章7節8節 新共同訳

天使は、単に、起きなさい、服を着なさい、付いて来なさい、だけで、何らかの指導とかは言わない。

神が牢屋でアレコレ言うとか、どうにも感覚的に納得できない。
なんで、イエス・キリストが濡れ衣で投獄されたのに、牢屋で指導するんだと思った。
神が牢屋に居る人に、アレコレと生き方を指導するかな。
自分が神の立場だったとして、自分が濡れ衣で牢屋に入れられたのに、牢屋に入っている人に天啓するか、という話だ。俺ならしない。
パウロは、相手の嫌がる事が判らないのだろうか。
パウロは、神の嫌がる事が判らないのだろうか。
パウロの感性と感覚は、理解しがたいところがある。
要するに、パウロが捏造しているだけではないのか。
もしくは、ローマ帝国の支配下だから、ローマ帝国のスパイのファリサイ派や、パウロの弟子の振りをしたローマ帝国のスパイが、牢屋の外で神の声真似をしたのか。
何か、声が反響するような装置でも作って。
多分、信者パウロは、使徒ペトロが牢屋で天使に素っ気無い事を言われたから、自分は神に生き方を指導されたと思いたかったのではないか。
対抗意識と自己顕示欲に囚われている。
だから、簡単に声真似に引っかかる。
牢屋だから、ローマ帝国の支配下で、他人が入ってこれないから、どうとでも声の反響装置を設置できる。
パウロは、よくもこんな状況で声を信じようと思ったな。
自分に都合が良い事は疑わないタイプなのか。

パウロは、神の気持ちよりも、自分が他の使徒よりも優れているという立場をアピールしたくて、牢屋で天啓を受けたと言い出したのではないか。
カインも、神の気持ちより、自分の憂さ晴らしを優先して、アベルを殺した。
こういうところがパウロの言う事は信用に値しない理由だ。

4、和解してない
ローマへの手紙でパウロは和解したと言っているけど、和解してない。

それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

ローマへの手紙 5章9節から11節 新共同訳

パウロは和解したと書くけど、和解はしてない。
「焼き尽くす献げ物」「穀物の献げ物」「贖罪の献げ物」「和解の献げ物」「なだめの献げ物」のうちの贖罪の献げ物だけをイエス・キリストが罪の肩代わりで十字架を背負った。
だから、贖罪以外は人間が自力で実行して達成する必要がある。
世界中の誰でもできる方法で和解する必要がある。
旧約ならイスラエル人だけで儀式をしたらいいけど、新約は全員に門戸が開かれているから、全員で儀式で動物を焼くのは無理がある。
聖書を読むことなら、世界中の人たちが一斉にやってもできる。

何かパウロは根本的に聖書を読み間違えているのではないか。
そういえば、パウロは文才がなかったな。
文才がないから読解力もないのだろう。
本当の使徒たちとの交流も少ししかないし。
心が使徒たちを相手に逆らっているから、まともに使徒の話を聞いているかどうかも怪しい。
パウロはローマ帝国の操り人形だから、ローマ帝国のスパイが聖書を研究して、その中から帝国に都合が良いように捻じ曲げてから、パウロにそれとなく吹き込んでいるのではないか。
操り人形は、自分が操り人形であることを自覚できない。
和解を自力で実行しなければならないという教義だと、スパイにとっても功績を上げにくいから、この辺りも捻じ曲げたのだろう。
スパイにとって、信者を多く獲得できる方が、功績としてローマ帝国の上層部に認められやすい。
だから、スパイは、信者を獲得しやすいように教義を捻じ曲げる。
パウロがおかしいというより、国家主義者で出世主義者のスパイがおかしい。
こんな協議を信じるのは、スパイが出世のためにでっち上げた屁理屈をありがたがっているようなものだからな。

5、パウロのせいではない
パウロのせいで何百億人の人々が惑わされたというけど、そういう人たちは、パウロが居なくても、別の人間に惑わされるだけ。
そんな教義を信じるような自己中の人間は、どの道、騙される。
楽な方へ楽な方へ流されるような人間性では、どの道、騙される。
パウロが居なければ、別の人間を操り人形に仕立て上げて、教義を捏造するだけの話だからだ。
出世主義者のスパイが悪いのであり、楽な教義に飛びつく偽信者の性根が悪いのである。
自分の性根が悪いのに、他人のせいにするな。

6、パウロの言う事
パウロの手紙は9割は正しいから、普通に読めば良い。
純粋な人ならそれなりに守れるから、神のルールをほぼ完全に守れるだろう。
擦れた人なら、自分で取捨選択できる。
純粋な人は、余計なところまで守って、無駄な労力を使うハメになる。
しかし、純粋な人が、無暗に取捨選択をすると、必ず間違えるから、純粋な人は、そのまま普通に読めば良い。
純粋な人の横に常に居て、何から何まで指導するなんて不可能だから、純粋な人は普通に読めば良い。

7、天国に入るまで
天国に入れるなら、どっちのやり方でも同じだ。
天国に入れるなら、どんなやり方でも良いと、俺は思っている。
入り方にこだわる人も存在するけど、そういう人とは考え方が別だ。
天国の門を見つけるまでの道のりは、いくつあってもいいと俺は思う。
一つしか許さない人間も存在するのは知っている。
道のりが何億通りあってもいいと思うけど、一つしか許さない人が存在するのは知っている。
ファリサイ派は、入ろうとする人を入らせない。
道のりを行ったり来たりしても、神は辛抱強く待っている。

8、パウロを信仰
普通、パウロを信仰しておきながら、パウロを偶像崇拝して、パウロが地獄へ落ちそうな事をするだろうか。
好きな人を地獄へ道連れにしようとするだろうか。
だから、パウロを妄信する人は、自分が何をやっているのか判らないのである。
パウロを誹謗中傷しろとは言ってない。
パウロを等身大で評価しろと言っている。
神の嫌がる事を理解できないパウロは、生まれ付きの感性がおかしいのか、単に親の育児がおかしいのか、階級社会が悪いのか。

9、使徒の兄ちゃん
本当の使徒に対しても、使徒の兄ちゃん程度に思っておけばいい。
偽装キリスト教団のサタンの手先は、本物の使徒も地獄へ道連れにしようと考えて、使徒を聖人化して偶像崇拝させて、地獄へ引きずり込もうとしている。
使徒は、近所の兄ちゃんみたいなものだ。
天国で近所で暮らすのだから、近所の兄ちゃんだな。

10、聖書より処世
聖書に偶像崇拝はいけないと書いてあるのに、絵で知るためと言われて盲従する人間は、神よりも目の前の保身を優先しているのである。
十字架を拝む人間も、タダの処世である。
使徒を聖人化して、偶像崇拝させて、地獄へ引きずり込もうとする。
なぜか、神を思えば十字架や偶像は許されるとか、言い出す。
そもそも、十字架は、物体の十字架ではなく、行為の事である。
使徒言行録で、三回も「木に架けられた」と出てくるから、実際の磔刑は十字架ではなく木に架けられた。

新約聖書:使徒行伝:5章:30節
わたしたちの先祖の神は、あなたがたがにかけて殺したイエスをよみがえらせ、
新約聖書:使徒行伝:10章:39節
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。人々はこのイエスをにかけて殺したのです。
新約聖書:使徒行伝:13章:29節
そして、イエスについて書いてあることを、皆なし遂げてから、人々はイエスをから取りおろして墓に葬った。

三という数字は、聖書ではかなり重要な数字である。
それを福音書や、使徒言行録の最初の方でも十字架と出るのは、信者向けの言い回しなのである。
使徒言行録は、ローマ帝国の上層部に提出する宗教史だから、割と目で見たままを書く。

11、地の獣と野の獣

略奪や飢饉を笑っていられる。地の獣に恐怖を抱くこともない。
野の石とは契約を結び、野の獣とは和解する。

ヨブ記 5章22節23節 新共同訳

「地の獣」は、サタン側の事だろう。
「野の獣」は、普通の動物とかだろうか。
「野の石」が、隅の親石というイエス・キリストの事だと思うから、野の獣は「人間」「信者」「義人」の事かもしれない。

聖書の各所で、時々、獣という文字が出てくるけど、文脈からサタンを指したり、義人を指したりするのだろうか。
この辺りは、少し読み込む必要があるから、あまり決めつけて読むという読み方は止めた方が良い。

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