悪を増やすパン種 援助範囲 怒った事を謝罪とパウロの立場で言ってはいけないセリフ
1、悪を増やすパン種
人類は、唆されて犯罪をする性質があるから、パン種のように悪行が倍々で増えていく。
神によって細菌が創られたのも、その人類の性質を説明するためだろう。
常に気を付けないと悪行が増えていく。
しかし、パン作りのように、いい働きにもできるチャンスも創った。
人類に唆される性質がなかったら細菌は創造されなかったかもしれないし、最近が原因の疫病もなく、パン種もなかっただろう。
パン種の代わりに、膨らし粉みたいなのに穀物の炭水化物を分解してたんぱく質を生成する何かが、代わりに創造されたかもしれない。
悪人が殺されて、周りの人が容疑者で、冤罪で逮捕されたとか言っている人が居るけど、悪人が悪人を招く。
道徳的に厳しい人よりも、犯罪気質の持ち主の方に、悪人は集まる。
道徳的に厳しい人の近くに行くと、事ある度に悪行を咎められるから、居心地が悪いため、悪人は近づかない。
悪人Aに悪人Bが近づいて、AとBが集まっているのを見て、悪人C、悪人D、悪人Eなどが集まって、そのCかDかEがAを殺して、Bが容疑者として逮捕される場合がある。
Bが悪くないかというと、そもそもAが悪人だと判っていて近づく方が悪い。悪人が2人も集まると、他の悪人が集まって、Aを殺す謀議が発生する確率が上がってしまう。
だから、最初に集まったBが殺害計画を立てたも同然になる。
善人同士で集まって励まし合うのは良い。
悪人同士で徒党を組むのは悪行になる。
群れて悪人を増長させている時点で、犯罪の実行犯より罪が重い。
足を引っ張り合う関係。
元警察官は、逮捕を重要視するから、その辺りは話半分で聞いておいた方がいい。
逮捕されなくても悪行は悪行である。
人間の法律に違反していなくても、悪行は悪行である。
2、援助範囲
貧者ラザロを考えたら、貧者に対してどれぐらい助けたらいいか判る。
食べ物、住処、服、医療、犬に襲われた時に助ける。これぐらいで十分なのである。それ以上の援助は不要だし、むしろそれ以上それ以外の援助をしたら逆に悪行になる危険性がある。
やるべき援助と、やってはいけない援助がある。
この区別が付かないと、必要以上の援助をしてしまって、取り込まれて、洗脳されて、騙されて、人生を食い潰される。
自分で援助の上限を決めるから騙される。相手から揺さぶられて、援助の上限を捻じ曲げられてしまう。
聖書に基づいて、援助の範囲と上限を決めるべきである。
3、謝罪とパウロの立場で言ってはいけないセリフ
人から見えないところで慈善事業をしたらいい。
パウロもそうだけど、金持ちの実家があるのに苦労ゴッコしてはいけない。見えないところで苦労をしたらいい。パウロの場合は、手紙でアピールする。
前から、実家が金持ちでいつでも帰れる人間が苦労アピールするのはイラつくと書いたけど、イライラするのは良くないのか判らない。憎んではいけないとはあるけど、イライラするのはどうなのだろう。
パウロに対しては、イライラするというよりも、呆れるという感情の方が近いかもしれない。
実家が貧乏なら苦労を人に見せても、そこまでイライラはしないかもしれない。
イラついて怒った事は謝罪する。申し訳ありませんでした。
パウロが怒ってはならないとか手紙で書いているだけで、本当の聖書に怒ってはならないと書いてあっただろうか。
パウロは、もしかしてしょっちゅう怒られたり、叱られているから、怒ってはならないとか言っているのか。
パウロが言うと疑わしいけど、本当の聖書でも言っているから、正しいのだろう。
ただ、パウロが言うと、信用を損なう。実際、パウロみたいな人間が近くに居ると、人が怒るから、それでパウロが私益と保身のために他人に対して怒ってはならないと身勝手な屁理屈を捏ねている感じになる。
よく言う「その立場で言ってはいけないセリフがある」というモノだ。
他人を怒らせる人間が他人に対して「怒ってはいけない」などと言うのは、他人の神経を余計に逆なでする。
他人を怒らせて人間関係が構築できないのに、さらに破壊するのだから、まともに仕事ができないだろう。だから、パウロは、人殺しをするために各地を回っていた。人殺しぐらいしかできる事がないからだ。
自分が悪いのに相手のせいにしていたら、仕事はできない。
本当の聖書は善い事を書いてある。
確かに、落ち着いて考えると、パウロの立場で言ってはいけないセリフだと判るようになった。
怒りを鎮めて、怒った事を謝罪すると、気が付いた。
怒りを鎮めると、パウロに対する感情は呆れに近いモノだと気付いた。
多分、最初はパウロに対して呆れていたけど、気付かない内に怒りに囚われて、パウロの立場で言ってはいけないセリフに気付かなかった。
俺は、パウロが、実家が金持ちの癖に貧乏ゴッコをする事に対して呆れていたのだろう。
パウロは自分の立場を考えないで、自分のやりたい事をやる。自分が言ってはいけない事も自分が言いたいから言う。俺はパウロのこういう部分に呆れていたのだろう。
パウロも、どこかの田舎で人の見えないところで貧者を集めて援助して苦労したらいいのに、パウロは田舎が嫌いで遭難以外では一回も田舎の村へ布教しに行ってない。
こういう苦労でもしていたら、俺も呆れはしなかったけど、徹頭徹尾、最初から最後まで都会でしか布教活動をしなかった。
イエス・キリストは村で布教をしたのに、見習わないパウロ。
多分、俺は聖書を読んでいて、気付かない内にパウロのこういう所に嫌悪感が湧いて、怒りという間違った感情に結びつけてしまった。
サタン側の手下である偽装キリスト教団のパウロ教徒は、こんな事も判らないで、パウロを妄信して、本物の使徒を偽使徒だと勘違いしてデマを流す。
教団内の保身と出世のためにアベコベにする。
パウロの実家は、ユダヤの国をローマ帝国へ売り飛ばして市民権を貰った売国奴だから、根本的にユダヤ人から恨みと怒りを買っているのだろう。
そんな家の息子が「恨んではならない」とか「怒ってはならない」なんて言ったら、どれだけ人の神経を逆なでするか。
犯罪の加害者が被害者に対して「怒ってはならない」「恨んではならない」「憎んではならない」なんて言ったら、どう思うか考えてみたらいい。
「その立場で言ってはならないセリフ」というのは存在する。
誰が言っても正しいセリフというのは、成立が難しい。不可能とは言わないけど。
金持ちが自虐をしても「自虐風自慢」と受け取られて、厭味ったらしいと正論をぶつけられる。
パウロは、自分が表に出てはいけない立場の人間だと判らない。
ローマ帝国の軍事力に守られていたから、他人の神経を逆なでする言動をしても、殺されずに済んだだけである。
聖書を何回か通読すると、こういう所まで理解できるようになる。
1回だけだと判らないだろう。
以前に書いたパウロに対する怒りは、通読の回数が2回3回4回と少なくて、信仰心も薄かったから、怒りという間違った対処をしていた。
ただし、パウロの問題行動については、特に間違ってはいないから、発言の撤回はしない。
善い事を言えば善人だという根拠にはならない事実を覚えた方がいい。
パウロは、「子供を怒らせてはならない」と言う癖に、自分は他人を怒らせる。
悪人が善い事を言えば、善い事を言わないよりも余計に悪行と評価されるかもしれない。
だから、パウロは、他の人の資金援助をして、自分は裏方に回って、人々に自分の存在を知られないようにしたらいいだけだ。
人に見てもらおうと祈ったりしてはならないと聖書にある。
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