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責任 ユダヤ人はバビロン人の補足と謝罪 神の字が読めなくなった 三千世界 夢判断と謝罪

1、責任
他人に責任を取らせても自分が責任を取らないと何の意味もない。

ファリサイ派は、自分が善行をしないのに、他人に善行を強要する。

イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。

ルカによる福音書 11:46

他人に責任を取らせると、その他人の何倍も厳しい査定を死後に、神の前で最後の裁きで受ける事になる、かもしれない。

わたしたち教師が厳しい査定を受ける、とも書かれている。

わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。

ヤコブの手紙 3章1節 新共同訳

教師を自称するのはダメだと書かれている。

マタイによる福音書 23:8
だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
マタイによる福音書 23:10
『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。

他人に責任を取らせても意味はないし、他人の何倍も責任を背負う事になる。
ただ、他人が改心するように促す必要がある。
もしくは精神病院で治療をするように促す必要がある。

心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。

レビ記 19:17

警告しなさいとも書かれている。

エゼキエル書 3:18
わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。

他人にアレコレ査定すると死後に自分がもっと厳しい査定を受ける。
しかし、だからと言って悪人が完全に悪行をしているのに、何の警告もしないのは逆に責任を問われる。

自分の罪は自分で背負う必要がある。

また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

マタイによる福音書 10:38

聖書では、一日は一年に相当する。
この世の一生は、死後の永遠に相当する。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

マタイによる福音書 11:28

この世で自分の重荷の十字架を背負う者は、死後は天国へ入れる。
この世で神に立ち帰らないと天国へ入れない。
この世で神と共に過ごさないなら、死後に天国で神と一緒に暮らせない。
この世の言動が死後の待遇を決める。

2、ユダヤ人はバビロン人の補足と謝罪
同胞の足を引っ張るカルデア人。
二日前にユダヤ人はバビロン人と血統が同じと書いた。
アブラムがカルデアのウルの出身であり、そのウルをバビロンが支配した。もしくは、ウルがバビロンを支配した。
だから、ユダヤ人はカルデア人でもある。

さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、

ダニエル書 3:8

バビロンの王ネブカドネツァルに対して、カルデア人がユダヤ人の悪口を吹き込もうとした。
非信者のカルデア人は、同胞のカルデア人であるユダヤ人の足を引っ張ろうとした。

色々、考えたけど、カルデア人がウルから遡上して、ユーフラテス川流域を支配したのだろうか。
あと、バベルの塔のウル辺りで建築されたと思うから、そこからバベル=バビロンという地名になったのか。

バビロン人は、バビロン人と言えばバビロン人ではある。
バビロン人は、カルデア人と言えばカルデア人でもある。
日本人も日本という国名の国民で日本人と言えるけど、大和人とか和人とか、そういう言い方もできる。
バビロンとカルデアとカルデア人の関係がどのようなモノか具体的に判らないから、この辺りが曖昧になってしまうけど、可能な限り考えていく。
サタン側が歴史を捏造するから、公式の歴史だと本当かどうか判らない。

そうなると、二日前に書いた、ユダヤ人はバビロン人ではあるけど、カルデア人でもある。
ちょっと間違っていたから、訂正して謝罪する。申し訳ありませんでした。

ただ、バビロンはサタンの象徴でもあるから、ユダヤ人を自称したらバビロン人を自称するのと同じになり、サタンの人間と自称しているのと同じになるのは変わらない。

それでカルデア人であるユダヤ人を、同じカルデア人が誹謗中傷して足を引っ張る。
信仰心の無いカルデア人は、同族だろうと妨害する、という暗喩なのだろう。
信仰心の有るカルデア人は「敬虔なイスラエル人」や「敬虔なユダヤ人」になるから、妨害しない。
ここでいうイスラエル人は、本物のイスラエル人であり、ハザール人の偽ユダヤの現イスラエルの事ではない。

3、神の字が読めなくなった
父のネブカドネツァル王はバビロン人と書かれる。ネブカドネツァル王は、ダニエルに対して親密に接している。

息子のベルシャツァル王は、神を冒涜した。

その時、人の手の指が現れて、ともし火に照らされている王宮の白い壁に文字を書き始めた。王は書き進むその手先を見た。
王は恐怖にかられて顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えた。
王は大声をあげ、祈禱師、賢者、星占い師などを連れて来させ、これらバビロンの知者にこう言った。「この字を読み、解釈をしてくれる者には、紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけて、王国を治める者のうちの第三の位を与えよう。」
宮廷の知者たちは皆、集まって来たが、だれもその字を読むことができず、解釈もできなかった。

ダニエル書 5 | 新共同訳 聖書 | YouVersion (bible.com)

この時、神の道具を冒涜したら、人の指が空中に浮かんで壁に文字を書いた。
星占い師・賢者・祈祷師は読めなかった。
しかし、ダニエルは読めた。

後の世に新約時代でイエス・キリストが地面に何かを書いたけど、律法学者やファリサイ派は読めなかった。

イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

ヨハネ福音書 8章6節から9節 新共同訳

もっと前にはモーセが石板に書かれた文字を神から持たされた。
神が直接、書いたのだろう。

主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、

出エジプト記 24章12節 新共同訳

そのとき、主はわたしに言われた。
「あなたは、前と同じように、石を切って板を二枚造り、山に登ってわたしのもとに来なさい。また木の箱を作りなさい。
わたしは、あなたが前に砕いた板に書かれていた言葉をその板に書き記す。あなたはそれを箱に納めるがよい。」
わたしがアカシヤの木で箱を作り、石を切って前と同じように二枚の板を造り、それを手に携えて山に登った。
主は、集会の日に、山で火の中からあなたたちに告げられた十戒と全く同じものを板に書き記して、それをわたしに授けられた。
わたしは身を翻して山を下り、あらかじめ作っておいた箱に板を納めた。それは今も、主がわたしに命じられたとおりそこにある。

申命記 10章1節から5節 新共同訳

神が書いた石板は、モーセやイスラエル人は読めたのだろう。
ダニエルは読めた。
しかし、新約になると、神の文字を読めなくなった。
例え、神が書いた石板を見たとしても、誰も読めないから、それが神の石板だと気付かないだろう。
神であるイエス・キリストが自分で書かないで、使徒に書かせたのは、自分で書くと誰も読めないからだろう。

バビロンの祈祷師・賢者・星占い師は、色々な言語に精通しているはずである。
そして、バビロンとイスラエルは地理的に近いのだから、そこまでゴッソリ違う文字を使う事はない。
そもそも、イスラエルの先祖であるアブラムは、バビロン領域のカルデア人のウルの出身者なのだから、ゴッソリ違う文字を使っているわけがない。
それなのに、読めないのだから、神の字が読めないのだろう。
地理的に800キロメートルしか離れていない陸続きなのだから、文字が読めないなんて在り得ない。
普段から貿易しているはずなのに、文字が読めないなんて在り得ない。
賢者は知識を集めるのだから、少し離れた貿易相手の文字が読めないなんて在り得ない。

バベルの塔がバビロニアの領域にあったから、神に言語を分裂されて通じなくなったというなら、意味は通じるけど。
アブラムの先祖は、他のカルデア人とは、使う言語が全く違うのだろう。
しかし、その場合は、アブラムはカルデアのウルの出身なのに、全く文字のやり取りをしていなかった事になるけど、これはこれで凄まじく不自然である。
バベルの事件からアブラムの召命まで300年ぐらい経っているけど、その間、一切、言語や文章のやり取りをしていなかった事になるけど、不自然だ。
また、アブラムに兄弟や親族が居て、子孫はウルに住み続けているはずだから、その人たちからも言語や文字を伝えられなかったのか。

神の字が読めなくなったのは、宗教上の設定であるイスラエルが不要になったからだろう。
アブラムの召命からイエス・キリストの復活までの間で、天国へ入れるのは「敬虔なイスラエル人」と「敬虔なイスラエル人を助ける異邦人」だけになっている。
つまり、異邦人は、神の字が読めないから、神の字が読める「敬虔なイスラエル人」だけがイスラエル人だと判るため、その「敬虔なイスラエル人」を助ければいいから、判りやすい。
自分がどれだけ勉強しても読めない文字を読める人が「敬虔なイスラエル人」だと判りやすい。
神であるイエス・キリストが地面に字を書いても、読めなかった律法学者とファリサイ派のイスラエル人は敬虔ではないし、イスラエル人の設定も要らなくなったから読めなくなったのだろう。

モーセ五書から人に書かせるのは、神が直接的に書くと読めなくなるからだろう。

4、三千世界
悪魔崇拝の仏教で三千世界と言っているのは、ココのフラットアースみたいなのが、氷の壁の外に3000は発見したという事だろうか。
悪魔崇拝の集団で、こういう事を発表して身内に広報しているのだろう。

5、夢判断の謝罪
ダニエルが夢判断をする時は、神に願い出ていた。

そして、他のバビロンの賢者と共に殺されることのないよう、天の神に憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈った。

ダニエル書 2章18節 新共同訳

俺は前に夢判断は別にやってもいいと言ったけど、神に願い求めて祈るように言わなかったから、間違いだったので訂正して謝罪する。
申し訳ありませんでした。
正しくは、まず神に求めて祈ってから言うべきである。


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