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子供が親を選んで生まれてきたと思うなら地獄へ落ちる 言葉と意識と無意識のズレ その他

1、子供が親を選んで生まれてきたと思うなら地獄へ落ちる
子供が親を選んだのではない。
神に立ち帰れるように、神が親子の組み合わせを考えて子供を胎で組み立てた。

人間は神が組み立てた。

あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。

詩編 139:13

だから、子供が親を選んで生まれたという話は完全な間違いである。

天国に入りたいなら、神の言う事を信じる必要がある。
子供が親を選んで生まれたというデマを妄信すると、神が人間を作ったという真実を信じなくなるから、天国へ入れなくなる。
信じるだけで救われるのは間違いだけど、信じてすらいないのに信じていると思い込んでいるエセ信者もいる。
信じるだけではなく、信じて実行する必要がある。
信じていると口で言うだけで、実行が伴わない。
信じていると思い込んでいるだけで、その実は信じていないエセ信者。
信じているなら、神が人を胎内で組み立てた事実を基準にして、価値観を構築する必要がある。
信じているなら、子供が親を選んで生まれてきたという屁理屈で作られた価値観を全て捨てる必要がある。
信じているなら、神が人を胎で組み立てたという真実以外の「人間が作られた理由」を信じてはいけない。
信じているなら、神が子供と親の組み合わせで、神に立ち帰れるチャンスを作ってくれたと判断する必要がある。
親の立場なら、この子供は「自分が神に立ち帰るために神が組み立ててくれた」と思わなければならない。
子供の立場なら、この親は「自分が神に立ち帰るために神が組み立ててくれた」と思わなければならない。

俺は毒親の元に生まれて、社会に適応できなくなったから、神に立ち帰るキッカケを掴めた。
もし、いい親の元で、虚弱体質でも社会に適応できるスキル教育を受けていたら、サタン社会に囚われていたから、神に立ち帰れなかった。
だから、俺は神に立ち帰るキッカケを与えてくれた神に感謝している。
俺の毒親の方も、息子が神に立ち帰るキッカケを掴んで、毒親の背教行為を糾弾するから、立ち帰るチャンスを最大限に与えられる。

親孝行をしなければならないと言っている人間は、神を信じていない。
神は、むしろ親を捨てろと言っている。

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。

マタイによる福音書 19:29

だから、親に恩返しをする人は神を信じていないし、恩返しを要求する親も神を信じていない。

信じるというのは実行が伴うモノである。
実行が伴わない信仰は偽物である。

行いを欠く信仰は死んだもの
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。
もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、
あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。
信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。
「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

ヤコブの手紙 2章14節から26節 新共同訳

この聖書箇所は、信仰と実行はワンセットだと言ってる。
行いを伴わない信仰は死んだものといっている。
アブラハムが息子イサクを生贄に捧げるように神に言われて実行しようとするのは、神が人を胎で組み立てたと信じているからだ。
もし、神が創ったと信じなかったら、神が捧げよと言っても捧げないし、子供を自分の私物だと思って捧げない。
子供を私物だと思っていると、偽神の悪魔崇拝で子供を生け贄にする。
子供を私物だと思っていると、中絶するし、捨てるし、食い物にする。
子供を捨てろと神が言っているのだから、神を信じるなら捨てている。
神はアブラハムに子供を生け贄に捧げよと言われて捧げようとしたのだから、子供を捨てろと言われたら捨てる。
自分の都合で子供を捨てるのと、神に命令で捨てるのでは全く違う。
自分の都合で捨てるなら、子供が金にならないと捨てる。
しかし、神に言われて捨てる場合は、子供がメチャクチャ出世しても捨てる。

自分に都合が良い出生の仕組みを妄信するのは、危ない。
自分に都合が良い屁理屈を妄信するようになる。

神の教えがキチンと残っていたら、こういう毒親の屁理屈は叩き潰されて、まともな親だけの社会になっていた。
神の教えを捨てるから、毒親だらけの社会になって苦しむハメになる。
子供自身が苦しいし、そういう子供が大量生産されて社会全体が世話する義務が発生して負担が増大する。
自分たちで作ったのだから、自分たちで養う義務がある。
捨てていいとなったら、誰も真面目に政治や教育制度をやらなくなる。
捨てていいなら、子供を大量に作らせて、教育しないで放置して、失敗したら臓器移植に利用して、成功したら使い潰せばいいだけになる。
「子供は親に感謝して当然」という考え方は、この考え方に似ている。
「子供は親を選んで生まれてきた」という考え方は、この考え方に似ている。
失敗したら捨てればいいと考えていたら、何も成功しなくなる。
失敗したら責任を取らないといけないルールだから、子供を教育する。

自分で自分の天国へ入るチャンスを叩き潰す毒親。
望んで生まれたとかい言う毒親は、神が組み合わせてくれた最高の「立ち帰るチャンス」を潰す。
自分で自分のチャンスを叩き潰す癖が染み付いているから、人生が上手くいかない。

もし子供が親を選べるなら、あなたの所には生まれない。

神が子供と毒親の両方が最大限に立ち帰れるチャンスを作るために、最高の組み合わせを考えてくれた。

神は、子供に親孝行をさせるために作ったわけではない。

2、言葉と意識と無意識のズレ
エセ信者は、言葉と意識と無意識がズレている。
エセ信者は、言葉では神を信じていると言う。
意識でも自分は神を信じていると思っている。
しかし、無意識では神を信じていない。
言葉では、神が子を胎で作ったと言う。
意識でも、神が子を胎で作ったと思う。
しかし、無意識では神が子を胎で作ったと思っていない。
親孝行すべきと思っているなら、子が親を選んで生まれてきたと思っているのと同じであり、子を神が胎で組み立てたと信じていない。
言葉と意識と無意識がズレていると、どうやったところで上手くいかない。

言葉と意識と無意識は自分の管理下なのに、全くコントロールや統制ができていないから、他人とまともに付き合えるわけがない。

3、その他


発展途上国という言い方は、発展の期待ができる分だけ強者である。
俺みたいな虚弱体質で出世のしようがないのに、出世の期待ができるなんて言われたら侮辱しているのかと思う。
そもそも、全ての国はサタンの支配下で、発展するかどうかもサタン側の都合次第なのだから、本人の努力なんか何の関係もない。
それなのに努力したら発展できるなんて言うのは、侮辱している。


自分を正常と証明するために結婚するのは、相手の人生を台無しにする。
男女平等になっていない。相手の人生を破滅させる。


他人を苦しめる事が目的で、効果を全く考えない逆恨み人間。
逆効果になっても、効果があると言い立てる。
結論ありきで屁理屈を捏ねる。

自分のやりたい事のために、後から理屈を捏ねる。


自分が穢れているからといって、他人を穢しても、自分の穢れはなくならない。
かといって、他人に清潔を強要しても、自分の穢れはなくならない。

穢れを自分の力で消せると思っているから、軽々しく穢れる行動をする。
そして、穢れて消せなくて、世間からのバッシングがなくならない状況になって、後悔するだけで反省しない。

罪の穢れを消すには、神に立ち帰るしかない。
神に立ち帰って、死んだ後の最後の裁きで、神から赦されるかどうかでしか穢れを浄化してもらえないと最初から判っていたら、軽々しく穢れる行動をしなかっただろう。

神は、神を知らなかった時の、神に対する罪を赦してくれる。
神に立ち帰って、二度と神の掟を破らない生活をしたら赦してくれる。
人間社会のルールは知らなくて破っても赦されないけど、神のルールは神のルールを知らなくて破っても知った後に破らない生き方をしたら赦される。


自分が悪行をしたのに、暴露した相手を裁判で拳を振り上げておきながら、風向きが悪いから取り下げる性犯罪のお笑い芸人。

負けるのも責任の内。
徹底的に負ければ、犯罪が続発しなくなる。

後輩に恨まれるからあいまいな決着にするのだろう。
あいまいな状況にする人間は、基本的に信用してはいけない。

判例が出ると基準になる。
その責任も判らないで裁判を乱発する人も居る。

判例になれば、永遠に残り続ける。
法律の勉強の時に判例として使われるから、永遠に残り続ける。
法律の大学が存在する限り、永遠に蒸し返される。
永遠に自分の汚名が残るのを嫌がって取り下げたのだろう。

もし、反訴されていたら、逃げられなかった。
反訴しなかった相手に感謝するしかないだろう。
自分が相手を殴ったのに、相手が殴り返してこなかった事に感謝するしかないだろう。

週刊誌側が反訴で殴り返したら、逃げられなくなって、芸能生命どころか、社会生命が抹殺されるまで潰されていた。
週刊誌側は、タレントの社会生命を抹殺しても自社に利益がないからしなかっただけ。
ただ、他の性犯罪者を逆らわないようにはできるけど、そんな性犯罪者が自社に逆らわなくなったところで何の得にもならない。
他の性犯罪者を適度に泳がせて、週刊誌のネタにする方が利益になる。
出版社は自社の利益のために活動しているから、社会の損得は関係がない。
なぜか出版社には無償の自己犠牲を要求する奴らが存在する。よほど不都合な存在だから難癖を付けているのか。自分が社会のために自己犠牲をした事があるのか。自分が自己犠牲をしてから要求しろ。

自己犠牲をしない癖に、自分に不都合な他人の金儲けだけを批判する奴。
その癖、自分に好都合な仲間の金儲けは批判しない。
依怙贔屓、ダブルスタンダード、ポジショントークである。

俺は前々から、罪が赦されるには被害者に謝罪して、賠償して、二度と罪を犯さない生き方をするしかないと言った。

犯罪をするなら「負ける責任」もあるのだけど、その「負ける責任」の責任感すらなかった。
命乞いをして「負ける責任」を放棄する。
負けて見せしめになれば、他の性犯罪者を委縮させて、性犯罪をしないように脅し付ける事ができるのだけど、その役割を放棄した。

普通、裏社会で覚悟が決まった人間は、ロクな死に方をしない覚悟を持っているのだけど、その覚悟すらない。
拷問で殺されるかもしれない覚悟とか、そういう覚悟がない。
永遠に汚名を蒸し返される覚悟もない。

「負ける責任」の責任感を持っていない人間を殺す価値もない。

犯罪をするなら、負ける覚悟、負ける責任が必要である。
負ける責任感も覚悟もないなら、神に立ち帰って犯罪をしない人生を送れば良いのに。

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