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主は様々な性格の人を天国へ入れる 厳格な修行者か慈愛な人格者だけではない

1、天の主は人々の性格にこだわらない
この国の国民の99%の人は、宗教指導者に対して限定された二種類の理想像を抱いている。それは、厳格な修行者と、慈愛の人格者の二種類である。時々は破戒僧みたいなのを望む場合があるけど、ほぼ二種類だ。
しかし、天の主は、指導者にこの二種類だけに限定しない。聖書の中でも、そういう宗教指導者の姿が描かれている。モーセは口下手で、イズラエルを助けるためにエジプト人を殺したのがバレたと思って逃げる。
モーセの兄のアロンは、イスラエルの人々の背教的な突き上げに屈して、金の子牛の像を作ったりする。モーセの結婚について文句を言って、神に逆らったりする。
士師も、ギデオンは一族が貧弱で自分は末弟であることを気にする。サムスンは、色々やったり、遊女と暮らしたり、自身の神からの力の秘密をばらしたり、あれこれやる。
ヨブは神に恨み言を言ったりする。預言者エリは息子2人を教育できずに、神を冒涜するような悪行を直せなかった。預言者エリは、天国へ入れたかどうかは判らない。
ヨナは、神の命令に従わずに、逆方向へ向かって船に乗って、船底で嵐の中でぐっすり眠る。また、そのあと、任地へ行っても、何か、神に対して、だから来るのは嫌だったんだと言ったりする。
ペトロはおっちょこちょいだし、時々、サタンよ去れと言われるぐらい世に迎合したり、外典では変装して逃げようとして主が現れてまた贖いになってやろうと言われたから自分が戻ったり。水の上を歩けなかったり。
使徒たちも、誰が神の左に座るのかと話し合ったり、イエス・キリストが礼拝している時に眠り込んだり、裁判に掛けられる時に逃げたり、それこそ色々とやっている。
だけど、天の主は、そういう様々な性格をしている人々を指導者にしている。こういうことから、性格はあまりこだわりがないのだろう。主を崇めるかどうか、主の律法に従うかどうかが重要なのだ。
天国への招待状を旧約では、イスラエル人とイスラエル人を助けた人達に限定していた。しかし、新約では、様々な人たちへ幅広く配っている。性格ではなく、契約を守るかどうかで天国へ招待するかどうかを決める。


2、厳格な修行者と慈愛の人格者とは

マタイ6章で、「施すときには」「礼拝するときには」「断食するときには」の3つで、慈善事業と礼拝と苦行を他人に見せびらかしてはいけないと、天の主は言っている。

聖書では、苦行をわざとらしく見せるのはいけないと書いてある。なぜ、見せつけてはいけないのかは、まだ自分には判らない。だけど、天の主がダメと言っているから、とりあえずダメということにする。
苦行をする修行者を見て楽しんでいるのだろうか。エンタメか何かと思っているのだろうか。これも、サタンの騙しの手口だろうか。天国へ入るかどうかの問題を見せ物に貶めている。
なぜ、この国の人々は、こんな2種類の性格の宗教指導者を望むのだろうか。天の主は、性格など何の関係もないと言っているのに。サタンが仕向けているのだろうか。
修行者か人格者のどちらかの教えを受けたいのだろうか。そういう人の言葉の方がありがたいと思っているのだろうか。そういう人の言葉を聞いている自分の酔っているのだろうか。
修行者なら、何か高尚そうなのをやっているように見えるから、判りやすいため、言葉を借りて周りの人たちに偉ぶりたいのか。死後に天国へ入るかどうかよりも、現世の利得ばかり考えている。
人格者をどうやって決めるのだろうか。確かに、慈善事業・礼拝・苦行を他人に見せない人では、人格者かどうかなんて見分けにくいか。なぜ、人格者かどうかを見分ける必要があるのだろうか。
厳しいことを言われたくないから、人格者を選んでいるのだろうか。それは、人格者ではなくて、単に他人を堕落させるか、金儲けのために耳障りの良い言葉を並べているだけの詐欺師だ。
そして、この2種類を食べすぎて飽きてきて食傷気味になったら、口直しに破戒僧の破天荒を味わう。宗教をエンタメの一種と思っているのだろうか。サタンにそういう思考回路になるように騙されている。
こういう2種類3種類を楽しむ人は、自分が死んだ後に天国へ入るか、地獄へ落ちるかなのに、こんな事を楽しんでいていいのだろうか。地獄へ落ちたら、1000年は火で焼かれた後に魂ごと体が消滅されるよ。
なんで、1000年ほど焼いた後に魂を消滅させるのだろう。なんで、死んだ瞬間に魂を消滅させないのだろうか。もしかして、焼かないと穢れるのだろうか。穢れを1000年ほど焼いて消してから、魂を消滅させる。
もし、1000年ほど焼かないで魂を消滅させると、その魂の穢れが周りに飛び散るのかな。確かに、自分たちでも、ゴミを捨てる前に、まずは、ある程度はキレイにしてからでないと、汚いのが飛び散りそうだ。
穢れが周りに飛び散ったら、穢れていない清い魂まで穢れる。清い魂を巻き込むわけにはいかない。清い魂は、生前に天の主へ敬虔な生き方をしていたからだ。
清い魂は、生前は神に対して敬虔であって、他人に付き合いやすい人ではない。ましてや、背教者にとって付き合いやすい人ではない。むしろ、背教者にしてみれば、胸糞悪い人間に感じただろう。
なぜなら、神に敬虔な義人は、背教者の生き方を全面的に批判して否定するからだ。昔から背教者たちが義人を迫害したり殺害していたのは、義人は背教者の生き方を全否定するからだ。

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