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1つめのターニングポイント


自己主張があまりできない子供だった。
嫌われることが怖くて、失敗することが怖くて。目立ちたくなくて。

そんな私のターニングポイントは3つある。
1つめが【部活を一日で辞めたこと】
2つめが【行きたい大学に行けたこと】
3つめが【子どもを生んだこと】

この中でも、1つめは【親に反対されても自分で決めたことを行動した】思い出で、自分にとってとても重要な思い出だ。

私は小学校を卒業するまで水泳を習っており、そこそこタイムも速かった。

中学校に上がるタイミングでスイミングスクールは辞めた。

さて、そこで問題なのが中学の部活動問題。
激しい運動部は興味のあるものがない。
悩んでいると、その春中学を卒業した兄が所属していた水泳部を母が猛プッシュしてきた。
「雰囲気も良くて、お兄ちゃんは本当に水泳部で良かったよ。あなたは泳ぐのお兄ちゃんより向いてるし、絶対良いと思うよ!」

私は嫌だった。
兄が所属していたということは、兄を皆知っているのだ。私個人じゃなくて、兄の妹というポジションで見られるのは小学校で散々経験してきた。
しかし、部活動の入部届け提出期限は3日後。
母もやらせたがってるし、まあ泳げるし、他に興味あるものないしいいだろと思って、とりあえず見学に行った。

第一印象、雰囲気が暗い。

何故か知らないが、春でまだ水泳的シーズンではないからなのか、とにかく部の雰囲気が暗かった。
体験入学の1年はとりあえず学校周りのランニングをさせられた。

言語化できな違和感があったが、入部届けの締切が近い。母に相談するも、気のせいだ、お兄ちゃんがいた時は皆とても良い人で良い部活だったから間違いない大丈夫だ!と強気。
本当にそうかしらと思いながら、私は入部届けを提出した。

しかしその次の日、私は顧問に入部届けを取り下げてもらった。

届けを出した日の放課後、部活に行ってみると、他に同学年女子は1人だけだという事が判明したのだ。
しかもその子は小学校で全国大会に出場していて、現在も外部で本格的トレーニングをしているとのこと。

ズガーーン!!!

スイミングスクールでそこそこ速い程度の私は、頭をトンカチで殴られたような衝撃。
その子の髪は、塩素で色が抜け茶色になっていた。

無理無理、唯一の同学年女子がそんな子じゃ絶対勝てないし、そもそも仲良くなれないじゃん。
男子は男子でワチャワチャしてるし、部活全体的が雰囲気悪いし絶対無理。

家に帰って1人で考えた。
本当に3年間そこでやるのか。兄と比べられながら?あの女の子と比べられながら?仲良い人ができないまま、こんな不安な気持ちで部活ってやらなきゃいけないの??
泣きそうだった。

そして決めた。

次の日の朝、登校してすぐ顧問の所に向かった。
「入部届け、取り下げたいんです。やっぱり入るの、辞めます。」

その日が入部届け提出締切直前なこともあり、
顧問からは「何故やめるのか?嫌なことでもあったのか?」と色々聞かれたが無事に入部届けを返してもらえた。

しかしそこからがまた大問題。
担任から事情を聞かれ、他にやりたい部活は?と聞かれ、咄嗟に「すいそうがく部」と答えた。
1番の仲良しの子が、吹奏楽部に入ると言っていたのだ。
その子となら部活を楽しめると思った。

でも実はこの時の私は、吹奏楽という漢字もちゃんと知らないし、譜面も読めない。 ピアノをやっていたわけでもない。

担任は、特別に入部届け締切は週明けにしてあげるから、親とよく話し合ってこいと言った。

親に入部届けを取り下げたこと、吹奏楽部に入りたいことを伝えるととても驚かれたし、譜面も読めないのに吹奏楽??と心配された。

それでも水泳部で3年間過ごすより絶対良いと心の中で思いながら、初めて、自分の意見を貫き通した。
私は吹奏楽部員になった。

しかし、この時の私は知らなかったのだが、当時の吹奏楽部は2年前に異動してきた顧問が超スパルタだと有名だったらしい。

ここから、挫折、努力、成長の全てを味わい、なんとも熱い3年間を過ごすことになる。

この時の部活仲間はアラサーの今でも連絡を取っている。
私の現在の人格形成の基本を形作ってくれた大事な3年間である。

コンクールの練習はつらかったし、下手くそでメンバーから外されそうになったし、それでも必至に努力してそれなりに上手くなったし、なんというか、今振り返ると実に青春していた。

あの日、引っ込み思案だった私が自分で入部届けを取り下げた。
親の勧めを断って、自分で部活を決めた。

その第一歩が、私の大切な青春をつくり、兄の妹ではなく、私個人を生きることの始まりだった。

これが私の最初のターニングポイント。
私が初めて、自分で選んで行動し、人生を変えた話です。

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