分かって欲しいと思うなら
「察してよ」というのは、日本人独特の表現のように思います。
察するとか、阿吽の呼吸とか、「言わなくても分かるでしょ」という「思い込み」は正常なコミュニケーションを阻害している、と私は考えています。
普通に会話をしていても、言葉の取り違えや受け取り方の違いやずれによって、誤解したりされたり、すれ違いが生じることが多いのに、それを言葉も使わずに自分の想いを分かってもらおうとしたり、分かって当然というような思い込みで相手と接したところで、正しいコミュニケーションは取れないし、当然思いも伝わりません。
相手は「私」ではありません。
生まれも育ちも育った環境も受けたしつけもそれぞれ違います。
同じ家に生まれ、同じ両親の元である時期まで同じ環境で育つ双子や三つ子でも「似たような考え方」にはなるかも知れませんが「同じ考え方」にはなりません。
以前に聞いたある大学教授のお話で「発信者責任と受信者責任」というモノがあります。
これはコミュニケーション不全を起こす原因が発信者側と受信者側のどちらにあるか、という内容なのですが、主に欧米は「発信者責任」という考え方で、日本は「受信者責任」と考えられているんだそうです。
コミュニケーションを円滑に進めるために、欧米ではその情報を発信する側が受け取る側により分かりやすく、伝わりやすいよう伝える責任がある、と考えているのに対して、日本はその情報を受け取る側に責任があるということです。
受信者責任にしてしまうと、上記のようにそれぞれが違う考え方、違う価値観を持っているため、一つの同じ情報でもそれぞれが違った受け取り方をしてしまいます。
これでは情報伝達が思うようにいかず、それぞれが違った受け取り方をしてしまうことでそこから先はさらに間違った方向に進んでしまうこともあります。
その究極が「阿吽の呼吸」だったり「以心伝心」なのではないかな、とその話を聴いて感じました。
自分で想いを言葉にしていないのに、分かってくれないとか、仮に相手が何かを伝えたとしても、それが自分の「分かって欲しい思い」と違っていたら、分かろうとしてくれないと言われても、相手は戸惑うだけですし、そういう態度が続くことで「愛想を尽かされる」ことにもなってしまいます。
私はカウンセリングに限らず、日常会話の中でも相手が誰であっても「中学生が理解出来るような言葉」を使ってコミュニケーションを取るようにココロ掛けています。
これは一対一での会話の時も、講座やセミナーのような一対多数の時でも変わりません。
昔は年齢にそぐわないような難しい言葉を連発して、相手を煙に巻くようなことをしていました。
腕力ではマウントを取れないので、言葉でマウントを取っていたんですね。
ですがそれでは本来のコミュニケーションが取れないどころか、相手が自分から離れてしまう、ということをしばらく経ってから理解しました。
自分の事を分かって欲しいと思ったらまず、自分の想いや考えを分かりやすい言葉で、時には身振りや手ぶりまで総動員して、相手に伝える努力をする。
お互いにそれを続けることで正常なコミュニケーションが取れて、お互いに通じ合っていけるようになるものです。