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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[189]発熱
第8章 風雲、急を告げる
第2節 剣作りに挑む
[189] ■2話 発熱
川面の氷が解け、強い南風が吹いて、もう春かと思った。しかし、そんな陽気は三日と続かなかった。
このところなかったような寒い日だった。鉄囲炉裏の囲い越しに外を眺めて、
――風が強くなってきたな、
と、気付いてはいた。しかし、灰色のけば立った雪雲が北の山裾に降りてくるのを見落とした。その後急に冷えてきて、風がいよいよ強まり、季節外れの雪になった。
いつもよりも早めに鉄囲炉裏を出て、強い風の中、帰り道を急ぐナオトは、目の前が見えないほどの地吹雪の中で道に迷った。みるみる激しくなった雪にいつもの踏み跡は隠れ、景色はまるで違って見えた。
すぐ近くだからと風と雪への備えを怠った。
皮衣の背にヒツジの毛皮を重ねて被っているが、雪模様に慌てて出たので、いつものように体の汗を拭うことをしなかった。先ほどまで鎚を握る手に付けていた手袋もわざわざ外して小屋に置いてきた。手綱を握る両手はすぐにかじかんだ。
度を越した寒さのためにナオトはシルの背で気を失い、馬に連れられてどうにかゲルまで戻った。
ようやくゲルの入り口まで辿り着くと、立ち止まったシルの背から薄雪の上にずり落ちた。鼻先で顎を突つかれてどうにか意識を取り戻し、囲炉裏まで這って行った。
熱がある。いろいろなことが重なり、何よりも、このところ無理をして疲れていたのがいけなかった。
――ゲルの中を温めなければ。
シルをゲルの中に引っ張り入れた。寒い。体がぶるぶると震え出し、止まらない。
凍えた手を揉んで、やっとの思いで灰の奥から燠をかき出した。木炭を多めに入れて乾いたヒツジの糞を被せ、上がる炎を確かめた。盥に残っていた冷めた湯を三口で飲み干し、また水で満たした。
干し草と手桶をシルのところに運び、水汲み袋から水を注いだ。頸に腕を回して寄り掛かると、シルはじっと見てから瞬きをした。
何かの乳で作ったアウールルを鉢から指ですくって無理やり口に含む。
いつも使っている厚手の叩き布に包まっても震えは止まらない。
湿った革の内着を脱ぎ、それで体と腕をごしごしと擦ってから、奥にたたんで置いてあった麻の夏衣に着替えた。その上にヨーゼフがくれた革の袖なしを着て、帯でしっかりと留めた。長靴を脱ぎ、下穿きも脱いで、湿り気を取ろうと囲炉裏近くに張ってある紐に掛けた。
震えはまだおさまらない。
汗を拭うのに使っている麻布で手足の指を何度も擦り、どうにか乾いた両足を塩袋に突っ込んで革紐をぐるぐると巻いて留めた。塩気の多いエーズギーを舐めながら、叩き布に包まったままヒツジの毛皮を被り、暖かだったため今朝置いて出た手袋も付けて囲炉裏の側に敷いた行縢の上に丸くなった。
その様子を静かに見ていたシルは、ゲルの床に敷いた叩き布の上をナオトの側まで進むと足を折り曲げて横になり、大きな目を閉じた。
いつかと同じ善知鳥の磯の夢を見てときどきうなされ、ヒダカ言葉をあれこれ口にしながら眠った。
二日後の昼下がり、ゲルの中が陽ざしで温まるのを感じ、はっとして目が覚めた。入り口の手前に立っているシルを見遣ると、よほど嬉しいのか尻尾を振り、頸を伸ばして「グルルルッ」と鳴いた。
どうにか半身を起こしたナルトは、シルの足もとの籠に干し草を運び、二つ目の水汲み袋から手桶に注ぎ足した。
――危なかった。またお前に助けられたな。
そう思いながら頸をぽんぽんと叩き、背中をヒツジの皮の切れ端でゆっくりと擦った。
無性に喉が渇く。火を熾して鍋を掛け、潰したコメが薄い粥になるのを待つ間に、近くの川岸まで水を汲みに下りた。
翌朝早く、こちらを向いて耳を立てているシルにどうにか這い上がって、雪の消えた道を北の疎林に向かった。
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