『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[023]第2章 フヨの入り江のソグド商人
安達智彦 著
【第2章の主な登場人物】
ナオト ∙∙∙∙∙∙∙∙ 日本海を越えて大陸の国フヨに渡るヒダカ生まれの青年
カケル ∙∙∙∙∙∙∙∙ 大陸と交易する双胴の舟の舟長
タケ兄 ∙∙∙∙∙∙∙∙ 舟長カケルの右腕ともいえる熟練の舟人
ハヤテ ∙∙∙∙∙∙∙∙ フヨ国の海際の湊でカケルの交易を助けるヒダカ生まれの商人
ヨーゼフ ∙∙∙∙ 現在のアムール湾の入り江に住むバクトリア生まれのソグド商人
オシト ∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 漁に出たまま戻らなかったナオトの父。象潟の生まれ
ダーリオ ∙∙∙∙ ヨーゼフの弟。バクトリアから匈奴、フヨと旅し、日本海を越えた
ウリエル ∙∙∙∙∙ ヨーゼフの息子。匈奴の東に住む
アン老人 ∙∙∙∙∙ フヨ国で土の器を焼く窯元。漢の窯で働いていた熟練の陶工
「第2章 フヨの入り江のソグド商人」のあらすじ
およそ九日間の航海の末に、ようやく大陸が見えてきた。ナオトが夢にまで見た輝くような陸だった。
その頃の沿海地方を、ヒダカの舟人はフヨの陸と呼んだ。フヨの国では、時機を定めて市が立ち、各地から人が集まってくる。
南北に長く、冬には凍るアムール湾岸の湊とその北にあるハンカ湖にもそうした市が立つ。シベリアから降ろす冷たい風に、手袋の中の指先が紫色に変わるような凍てつく季節がやってくる前にと、陽ざしを惜しむようにして南と西から商人が集まり、ヒツジの毛の叩き布や木でできた道具、鉄とフヨの鋼とその製品、穀類や乳製品などの食料を持ち寄っては交換し、また、金銀を介して売買取引している。
そうした商人のうちに、西の彼方のペルシャからやって来てフヨの入り江に住むヨーゼフがいた。ナオトは、兄カケルの取引相手だというその老いたソグド商人から言葉を学び、また、北から西にかけて広がる匈奴国や中央アジアの地理と人々の暮らし、それに、ヒダカでは見ることのないいろいろな動植物と物産について一から教わった。
ある日、いつもの磯で腰を下ろして浜の動きを眺めていたとき、浜辺を馬で駆けるソグド人の娘を見た。幼馴染みのハルに似たその横顔を、ナオトは目で追った。 【以上、第2章のあらすじ】
第2章 フヨの入り江のソグド商人
第1節 フヨの入り江
[023] ■1話 輝く陸 【BC92年6月初】
十三湊を出て九日目の朝。
霧が晴れると、昇る朝日を受けて輝く陸が、進む舟の右手にはっきりと見えた。
「ナオト、あれが大陸だ。吾れらは息慎の陸と呼んでいる」
――ソクシンの陸……。
前向きで漕ぐナオトは、浮き立つような気持ちで、初めて見る大陸をずっとその目に捉えていた。ここから先は、島や遠くの山、大きな河口を目当てに陸乗りが続く。
――陸が照り輝いている。思い描いていた通りだ。
進む舟の右手に陸を置いて、二日進んだ。一度、川水が海に流れ込んで合わさるところで沖に持っていかれそうになった。難なく乗り切ったカケルが、誰にともなく、
「日が暮れかかると、陸からの風に持っていかれる。川の流れと合わさると厄介だ」
と呟いた。
十一日目の昼過ぎ、善知鳥の浜の物見三つ分はあろうかという高さから斜めに下ろす岩の壁が見えてきた。南を指して突き出ている岬だった。
――ここが大陸の南の端だろうか?
ナオトがそう思ったのは、もう何度目かだった。みなが黙り、櫂を握る手に力が入った。目に入る汗を気にする様子も見せず、懸命に漕いでいる。大事なところに差し掛かったと心得ているのだ。
岬を西に回ると湾になっていた。それを潮の流れと帆に受ける風の力で横切る。
前の帆の梯子の中ほどまで上って額に手をかざし、行く手を探っていたタケ兄の目に大きな島影が見えてきた。腕を二度、大きく左右に振った後に指差す。沈む夕日がカケルの顔を正面から照らしている。舟は真っすぐ西に向かっていた。
「よおーっし。梶はこのままだ」
と、カケルが大きな声でタケ兄に応えた。するとトキ爺が、
「夕餉だぞーっ」
と、いつものように椀を配り出した。
カケルがナオトの方を見て言った。
「さっき回ってきた岩の岬が、フヨの入り江に向かうときの一番の南の端だ。あそこで潮の路は二つに分かれる。フヨの入り江では誰もそうだとは言わないが、吾れはそう信じている。だから、あそこで梶を過つと、潮の力でそのまま南に持っていかれる」
――それであのとき、みなが押し黙り、漕ぐ腕に力が入ったのだ……。
夕餉をすすっている間も、舟は陸に沿って西に向かう潮と風の力とで進む。
翌日の昼、北側に見えていた陸が遠ざかったと思うと、行く手に低い陸地が見えてきた。舟は順調に進んでいた。みな、漕ぐ手を休めている。
「ナオト、あの奥の山が見えるか?」
と、後ろから声を掛けて、進む先をカケルが指差した。顔を上げると、遠くに高い山が見えている。
岩木山のように優しげだが、高さはそこまでではない。それに、手前に広がっている山並みが麓を隠しているので、空に浮くように聳えるのでなく、ひっそりと後ろに控えているように見える。この時季、まだ雪はない。
――山当てだ……。
ナオトは、
「はい」
と大きく頷いた。
「いま右手に見えている島の陰には大きな湊がある。その湊は陸ではなく、半島の先端にある。息慎の入り江とフヨの者たちは呼んでいる。
息慎というのは、昔、その半島の先までを治めていた国らしいが、吾れはよく知らない。行く手に見えているあの高い山の方角にあるもう一つ別の島の奥に広がるのが、吾れらが向かっているフヨの入り江だ。こちらはフヨの陸の側にある」
「フヨと息慎と、陸が二つあるのですか?」
「いや、一つだ。幅が広くて長い湾の両側なので、陸が二つあるように見える。しかし、奥で繋がっている。息慎の陸の側にあるので息慎の入り江、フヨの陸にあるのでフヨの入り江と呼び分けている」
「善知鳥の海と同じですね。善知鳥側と下北側と……」
「そうだな、同じようなものだ。陸の大きさはずいぶんと違うが……。二つの湊はそれほど離れてはいない。風次第だが、半日もあれば舟で行き来できる」
「この辺りは島が多いのですね?」
「ああ、多い。それにところどころに岩根がある。あの島の形をよく覚えて置け。あれが目当てだ。島の左肩からさっきの高い山が離れて見えるところまで進んだら、そこで、フヨの入り江に向けて梶を北に切る」
なぜかカケルは、そこで進路をわざと山当ての方角から外し、帆と梶を使って南に回り込んだ。いま通り過ぎてきた北側を見ると、島が二つ並んでいる。
――そうか。島と島の間は潮の流れが速いので、カケル兄はそこを避けたのだ……。
日が暮れて、空には星が瞬いている。食事を済ませ、みなが最後の仮り寝に入った。疲れているはずなのに、気が立っているためか、ナオトは眠ろうとしても眠れなかった。
翌未明。左手に現れたヒダカの深浦の岬のような切り立つ岩の崖を横目で睨みながら、カケルは小島の間をフヨの入り江に向かって舟を進めた。
頼りない早朝の薄明りの中でひと繋がりに見えている海と島とを、白く光る波打ち際が上と下とに鮮やかに分けている。
――いつも思うが、ここだけは陽のあるときに通りたい。疾風にやられてあの岩にぶつかったら、ひとたまりもない。
入り江の手前の、フヨの陸の方から迫る一つ目の岬を越えた。二つ目の岬を沖に避けて、朝風を頼みに北に向かえば、あとわずかでフヨの入り江の舟寄せだ。舟が進む先には、何度か大風から守ってくれた小高い丘を抱く島が横たわっている。
陸と島とを左右に見ながら漕ぎ進んでいくフヨの入り江は、縦に並んだ大小二つの島を取り囲むように広がる大きな湊だった。十三湊のようにときどき砂のために閉じる水戸は見えない。集まっている舟は大きなものだけでも十艘を越え、十三湊よりも多い。
朝靄の中に湊の全景がようやく見えてきたとき、圧倒されたナオトが、「おおっ!」と声を上げた。心に描いた通りの光景だった。
「驚いたか?」
「はいっ!」
カケルは小さく頷き、おおらかに笑った。
「舟だけではない。家も多い。この時季だと各地から商人が集まってきているから、五百人近くは寝泊まりしているはずだ」
――善知鳥の海の奥に控える大岡よりも大きな村だ……。
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第2章2節 ヨーゼフ [026] へ
第2章3節 ハンカ湖の会所 [029] へ
第2章4節 ハンカ湖周辺にいた人々 [033] へ
第2章5節 バクトリア [035] へ
第2章6節 メソポタミアから来た一族 [039] へ
第2章7節 ソグド人と交易 [041] へ
第2章8節 フヨに残ったナオト [046] へ
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