『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[032]匈奴と漢の対峙
第2章 フヨの入り江のソグド商人
第3節 ハンカ湖の会所
[032] ■4話 匈奴と漢の対峙
紀元前九十二年のいま、フヨの国のはるか西にある沙漠を挟んで、その北にあるモンゴル高原の匈奴と南の漢との間では武力を用いた争いが久しく続いている。
匈奴は狐鹿姑という単于――国の王――が束ねている。長らく漢王劉徹と覇権を争ってきた狐鹿姑は、翌年を期して、漢の五原と酒泉に侵攻しようと機をうかがっている。
「これまでになく大きな戦さになる」
フヨのハンカ湖の会所はその話でもちきりだった。
しかし、匈奴における物資の欠乏は、東と西から漢に攻め入るとはとても決断できないほどに深刻だった。しかも、あってはならないことだが、このように重要な軍事上の秘密をどの商人も知っていた。
――匈奴では長い戦さを新たにはじめるための物資が不足している……!
匈奴がフヨで本格的に取引をはじめるようだという噂がハンカ湖に伝わってから、まだ日が浅い。だが、その取引の対象が主に鉄と食糧になるのは誰の目にも明らかだった。
二つの国の間に広がる不穏な気配は、収穫物が出揃う秋口になると俄かに高まる。そうとわかっていながら、さすがのカケルもすぐに舟を漕ぎ出すというわけにはいかない。
海の上では晴れた日であっても水飛沫がきつく、風は冷たい。日を置かず冬になり、西の海――日本海――を渡ろうとして十日以上も海上に身を晒すことは、そのまま死を意味する。しかも、フヨの入り江の海は冬には凍る。
冬が長すぎると思いながら育ってきたカケルだが、このところ、その冬を短いと感じるようになった。
左右の丸太の舟の底を磨いて貝を落とし、綱を替え、帆を張り替え、傷んだところに手を入れる。裂け目を見つけては漆で埋め、黒泥を塗って腐るのを止めることもある。舟首と舟尻に被せた波除けの木枠の直しも欠かせない。
あれやこれやと舟を直したり、荷を集めたりしていると、季節はあっという間に巡る。
日に日に強くなる陽光に照らされて、野の雪が融けはじめ、フキノトウの薄緑色が枯れ葉の下から現れると、カケルは冬の間に集めてきた荷の取りまとめに入る。穴を開けて束ねた竹の小板を手元に置いて、運ぶものの数だけ竹炭で線を引き、妻のカエデの手を借りてすべて揃っているかと確かめる。
風はまだ首筋に寒い。しかし、五月まではあと一月。十三湖の岸に散らばるいくつかの舟寄せを回って残りの荷を集め終わると、それを待つフヨの入り江に向けて、いよいよ西の海に舟を漕ぎ出す。
漢が西方の河西を抑えるいま、匈奴が外と結ぶ道は北と東しかない。
「ならば、東に輜重の路を開こう」
と、狐鹿姑単于が思い付きのようにして口にしたときには、あまりに迂遠と思われて誰も本気にしなかった東方からの北寄りの補給路は、その構想の奇抜さゆえに、かえって大掛かりに動き出すのではないかと匈奴のうちで話になり、また、商人たちも期待を込めてそう語り合った。
単于は、いま、商人に渡す金銀の多い寡いにはこだわらない。金は匈奴の国内に産するものを渡せば済む。さもなくば、沙漠の西と南にあるオアシスの国々を締め上げて税を集めればいい。何よりも、戦さをはじめる準備を整えることが肝心だった。
匈奴は交易相手の国を選ばず、商人を選ばない。支払いはいつも金で、しかも遅れることがない。それは、ソグド商人の間に広く知れ渡っていた。匈奴が望むものをできるだけ早く戦場近くまで届ければ、それだけ多くの黄金を得る。
どの商人もいま置かれた状況を利につなげようと必死だった。それぞれが、商品を匈奴の国に届ける手立てについては一言ある。人脈と知恵によって物資を入手することさえできれば、あとは儲けが付いてくる。
漢は、フヨの会所の存在とその働きにはずいぶんと前から気付いていた。また、ハンカ湖に限らず、匈奴がフヨの支配地内で物資を本格的に調達しようとするのではないかと恐れてもいた。しかし、仮りに匈奴がこの会所を重用しはじめたとして、それを阻止するために漢が打てる手立ては限られていた。
匈奴の東を治める左賢王の騎兵は、途中に置いた駅で乗る馬を替えながら、匈奴国からフヨまでの三千里を軽々と十日で走る。左賢王が選ぶ命知らずの護衛兵は、たった十騎で四百の歩兵を蹴散らす。
それに比べると、匈奴輜重隊の主力である荷車やラクダの動きははるかに鈍いものの、フヨ国の全域に渡ってその動きを止めようとすれば、漢は大軍団を常駐させなければならない。
遼東郡および玄菟など四郡の外に出てからの行軍と荷送りを、夏には、いたるところで曲がり、枝分かれして入り組んだ川筋が阻む。冬には、立ったままでは足元から凍り付いてしまうような寒さと北からの強い風がそれを許さない。
おそらく漢は、このフヨ国東部での交易を阻止するだけのために大規模な派兵に踏み切ることはないだろうと、会所に集まる商人たちは踏んでいた。
狐鹿姑単于から直に、「まずは、一度やってみよ」と命じられた匈奴の輜重隊長は、このところ、フヨの海際に着くコメを匈奴まで運ぶのに、一日でもいいので縮めたいと考えていた。
――フヨ国の内に設けた駅とその周辺は我らが何としてでも護る。そうすれば、そこまで運んで来ようという商人は現れる。黄金を少し多めに渡さなければならないかもしれないが、それは取るに足らないことだ。何しろ、その一日が漢との戦さの帰趨を決めることすらあるのだから……。
とくに選ばれて東方の補給路を任された百人隊長は、寒さに震える戦場での腹がえぐられるようなひもじさと、その中で兵をまとめることの難しさを身をもって知っていた。
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