『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[101]ザヤを初めて見た日
第5章 モンゴル高原
第2節 匈奴の牧地
[101] ■3話 ザヤを初めて見た日
冬の牧地には、日当たりがよくて風を避けられる丘の南麓が選ばれる。
エレグゼンに連れられて冬の牧地に移ってくるとき、ナオトはしばしば四方を見回した。視界を遮るものは小高い丘の他に何もなく、緩やかに上っては下る草原がどこまでも続いている。息をするだけで気持ちが安らぎ、ナオトはいくら走っても苦にならなかった。
着いてみると、小さな子が隠れて見えなくなるほど、草が茂っていた。
丘を下った小川近くにゲルを建てるときには言われるままに手伝った。初めてのことなので、いろいろと覚えることが多かった。
――なるほど、こういう作りになっているのか……。
みなと汗するのが楽しかった。
ゲルは、緩やかな草原地帯に適した円い形をした住まいである。
入り口と平行になるように二本の柱を建てて天窓の丸い枠を支え、その枠の中心から放射状になだらかに梁を下ろしていく。その梁を受けるのが、外回りの壁の骨格となる菱格子の木組みで、木と木を合わせる軸の部分にはラクダの腱を使っている。
この木組みの壁は、移動するときには嵩張らないように蛇腹式に折り畳む。こうしてできた骨組みに、ヒツジの毛で作った大きな叩き布を被せてラクダの毛を綯った縄や革紐で留め、屋根と壁に相当する覆いとしている。
寒さが厳しいとき、叩き布は二重張りにする。ヒツジやオオカミの毛皮を張り巡らせることもある。
ゲルの内側の一番長い部分は、普通の大きさならば、大人四人が縦に寝転んだほどになる。戸口を南向きにし、入って左手の西側には男が、右手には女が住まいする。
中央に炉を置き、暖をとったり料理をしたりするのに使う。炉の正面が東側にくるように設置してあって、その真上は開閉できる天窓になっており、換気や採光に用いられる。火を焚くときには竹筒を通して天窓から煙を外に逃す。
大勢の匈奴の移動はナオトたちが新たに建てたゲルに落ち着いた後も続いた。
ヒツジの群れを追う人々が次々と丘の周囲の牧地に移ってきた。男と女に多くの子供が混じり、数家族がひとまとまりになって動いている。
大きな騒ぐ声がナオトの耳に届く。そうしたときナオトは、エレグゼンのゲルから外に出ては人々が近づき、行き過ぎるのを愉快そうに眺めた。
――善知鳥の浜の総出のときのようだ……。
そう考えたとき、龍の岩山に昇ったときにドルジが、匈奴と一緒になった姉が秋になると家の近くの草原に戻ってくると話していたのを思い出した。
――そうか、ドルジはこのことを言っていたのだ……。
夜が明けるか明けないかのうちに子供たちの声が聞こえてくる。乗る馬を引いてきたり、ヤギの乳を絞ったりしているようだ。これも、ドルジが語った通りだった。
ナオトは、外に出るのも、歩き回るのも別に止められてはいない。どうせ、たいして遠くには行けないと、ナオトにもエレグゼンにもわかっていた。集まってくる人々を遠くに眺め、また近くに迎えながら、気持ちいい陽ざしの中で草原を歩いたり、丘に上ったりして一日を過ごす。ナオトにとっては夢のような日々だった。
新しい牧地に移ってからかれこれ五日が過ぎた。
退屈しのぎに疎らな林に隠れた近くの川まで下りていってサワガニを探した。魚の身は、ずいぶん長い間口にしていない。カニを餌に何か魚を釣ってやろうと思っていた。
そのとき、一人の若い大柄な女が川に通じる小道を下りてきた。それがザヤだった。ドルジの許婚のアーイが馬に乗っていたときのような上下の衣を身に着けている。
昨日、母や兄とこの牧地に移ってきた。水場を見ておこうと、石を踏んで川の方に下り掛けたザヤは、水音から、男がいると気付いた。そして初めて、ナオトを見た。この男は誰だとは思ったが、とくに怪しみはしなかった。
ナオトは下帯一つだった。匈奴の人々が集団で移ってきてまだ間がない。この川と水場がどういうところなのか、ナオトにはまだよく呑み込めていなかった。
女が川に下りてくるのに気付いても平然と立ち尽くしていた。ただ、姉のカエデとどこか似ているなと思い、じっと女を見つめた。
ザヤは、まるで喉元に短剣を当てられているかのように、その場を動かなかった。恐怖したのではない。遠慮でもない。ナオトの顔を見て、ちらっと下に目を遣って、すぐに目線を顔に戻した。そして一目で、恋に落ちた。
エレグゼンは、メナヒムに命じられた通りにナオトをもてなした。新しい牧地での仕事をあれこれ手伝わせ、数日間一緒に過ごすうちに、ナオトのことがわかってきた。そして、わからなくもなった。
――この男は戦士ではない。それは確かだ。しかし商人でもない。では、このナオトとは何者なのだ。
戦いに明け暮れたエレグゼンのそう長いとはいえない人生において、ナオトはこれまで会ったことのないような男だった。
ある朝、誰に聞いたものか、「ヒダカの男に」と従妹のザヤがヒツジの乳で煮たコメの粥をエレグゼンのゲルの入り口まで運んできた。善知鳥でカイと呼ぶ道具に似たものと椀が二つずつ、それに塩皿が添えてあった。エレグゼンに鉢を手渡すときに戸口からちらっと中を覗いて、すぐに立ち去った。
「あれはザヤ。吾れの従妹だ」
「……」
匈奴の夏の食事はヒツジや馬の乳を加工したものが主で、コメを口にすることなど決してない。ナオトのためにわざわざ作ったのだとすぐにわかった。
――ナオトを目にして痩せすぎとでも思ったか……。吾れは「客人をもてなせ」とメナヒムから命じられた。そして確かに、その通りにもてなしている。それをみなが知っている。ザヤまでもが……。
こうやればいいと先に手を付けたエレグゼンを真似て、ナオトはカイで鉢から椀にすくい、口に運んだ。グーッと、腹が鳴った。
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