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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[144]トゥバの鍛冶、イシク親子

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第6節 トゥバのニンシャ人たち

[144] ■1話 遠征21日目の朝 トゥバの鍛冶、イシク親子
 翌朝。
 もう一度大まかに見ておこうとメナヒム一行が窯場を訪れた。昨日の鉄窯からはまだ煙が上がっている。
 ――あれは見せかけではなかったらしい……。
 と、メナヒムがつぶやいた。
 帰るときに、匈奴の守備隊長とトゥバの族長が土城の境まで見送りに出た。昨日と同じ工人たちが付き従っている。
 そのとき、いま初めて気付いたというようにナオトを見ると、
「そなたは匈奴ではないな?」
 族長がいた。匈奴言葉だったが理解したナオトは、礼を失しないようにと言葉を呑み込み、「はい」とかしこまって答えた。
「どこの者か?」
 重ねて訊くので、今度は間をおかずに「ヒダカです」と故地を口にした。
「ヒダカ? 聞かぬな」
 そのトゥバ人は興味をそそられた様子だったが、元の厳しい表情に戻り、メナヒムに向き直って言った。
「では、お達者で」
「近々、またお目に掛かります」
 と、メナヒムが応じた。
 ――ヒダカとな。匈奴という国には、実にいろいろな部族の者が混じっている。
 トゥバ人の族長は、馬上の五人の背を見送りながらそう考えていた。

 メナヒムたちは、しかし、そのままトゥバを去るのではなく、二手に分かれ、丸一日掛けて大きな川の両岸に広がるトゥバの一帯を東から西へと見て回った。
 メナヒムたち三人の行く先々で、メナヒム兄弟の昔を知る者に出会った。昨日見た鉄窯とは別の川筋にニンシャ人が営んでいる鉄窯があり、そこでは古くからのやり方で砂鉄を焼いていると聞き、行ってみた。丁零テイレイで見たのと似た低く四角い鉄窯があり、何かの臭いがして、メナヒムに古い記憶が蘇った。
 ――そういえば、伯父の家はこの近くだった。確かに、この辺りでは昔から鉄を焼いていた。これはその臭いだ。
 その鉄窯に、漢のニンシャを発つまでは漢人が鍛冶かじと呼ぶ仕事をしていて、しかし、タンヌオラ山脈を越える長旅でもともと痛めていた膝を悪くし、仕事を替えた男がいた。ニンシャにいた頃から両親と親しく、トゥバの地でのメナヒム兄弟の成長を父母とともに見守ってくれた隣人だった。
 そのイシクという老人は、もう相当の歳だろうに元気で、一目見てメナヒムとわかり、目に涙を浮かべて肩を抱くと、何とかと声を上げた。
「メナヒム、生きているうちにお前にもう一度会えるとは……」
 と、言葉を詰まらせて再会を喜ぶ。
「息子はどうしている?」
 メナヒムが尋ねると、自分の元の仕事を継いで鍛冶をしていると言う。
「すぐそこだ。呼んでこよう」

 メナヒムはそのイシク親子からこの地で作る鉄についていろいろと話を訊いた。
 くわの刃先やくさび、ヒツジに押す烙印や肉を引っ掛ける手鉤、荷車の軸に使うテムールなどはここで出る赤い砂鉄から作る。それ以外にも、どうしても必要な小刀などの利器にするボルドを、丁零テイレイ堅昆キルギスなどのテュルク族の間に昔から伝わるタタールの技によって細々とだが作っているという。
 木を伐ったり、ヒツジのあばらったりするのに使う大小の手斧を見せてくれた。ニンシャの鋼で作ったという、肉を捌くのに使う先が尖って厚みのある小刀もあった。
「研ぎも含めて、やろうと思えばこれよりも長いものも作れる」
 と、どことなく見覚えのあるイシクの息子の方が言う。
 メナヒムは、次に来るまでに試しに長めの剣を作ってみてくれないかと頼んだ。
「短剣でもいい。これは手付けだ……」
 と言って、銀の小袋を渡した。
 幼い頃、一緒に川で遊んだこともあるその鍛冶のイシクに、
「いまきんを掘っているのはどこだ?」
 と聞いてみた。
「コプトゥ川だな。メーナ、吾れに聞いたと言ってそこを仕切っているかしらを訪ねてみてはどうだ」

 イシクから教わった川筋を辿って行った。大掛かりな金の採掘場はすぐに見つかった。喜んで迎えてくれた金掘りのかしらがいろいろと打ち明けてくれた。どうにか人を回してはもらえないかと言いたげだった。
「あのイシクには本当に世話になっている。頼めば、どんな道具でもすぐに作ってくれる。見てわかる通りに、ここでは鉄の道具は欠かせない」
「そうか。イシクはそれほどの腕前なのか?」
「イシクほどの鍛冶は他に見たことがない。ここで使っている滑車かっしゃなど、鉄製の爪も輪もわずか三日で作ってくれた。銅製のたらいを頼んだこともある。イシクは、鉄でなくとも何とかしてくれる」
「……」
「人手さえあれば、きんはまだまだ出ると思う。この川の上流はまだ手つかずだ。砂金は東に見えるあの山の向こうの川でも採れると若い者は言っている」
 バフティヤールとバトゥは、自分たちには理解できない言葉であれこれ尋ねて回るメナヒムにずっと付き従っていた。

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