『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[134]バイガルの西、フブスグル湖へ
第6章 北の鉄窯を巡る旅
第3節 青い水のフブスグル湖
[134] ■1話 遠征九日目の夕べ バイガルの西、フブスグル湖へ
族長のもとを辞した後にメナヒムたち七騎は、丁零の工人が砂鉄を集めるという川の岸に寄った。水辺に下りて、水草の周りの砂を実際に握ってみる。ナオトが水と砂とを口に含んで味見するのを、メナヒムが不思議そうに眺めていた。
その後、丸一日、バイガル湖の南の端を見下ろす丘に向かって真西に走った。そうとはわからないほどの緩やかな上りが続く。
そのとき、善知鳥湾で聞き慣れたキューンキューンという鳥の声がした。ナオトが空を見上げると、何十羽という鶴が北を指して飛んでいくところだった。昔の友に出会ったような懐かしさを感じた。すると、すぐ後ろでバフティヤールが「あれは鶴だ。北に渡るのだ」と言った。
――トゴルーというのか。何か、音がツルと似ている。それにしても、バフティヤールは吾れに教えようとしてくれたのだろうか?
ナオトは戸惑い気味に振り向き、黙ったまま目で礼を言った。
広々とした原の両側に高い山が迫っている。この原に初めて入ったメナヒムが案内の兵に訊くと、右手にあるのはソヨン山脈の東の端だという。
――なんと、あのハカスからここまで続いているのか……?
案内の二騎は、馬なりに、走りやすいところを上っていった。しばらくすると、正面に高い岩山が見えてきた。メナヒムは案内の兵に声を掛けて、馬を休ませ、塩と水を与えた。もう日は傾きはじめている。
高い土地を急ぐのは危ない。メナヒムは若い頃の経験からそれを知っていた。そこで、ここで泊まると決めた。
翌未明。
ゆっくりと上って行くと、先頭を行く兵が、
「あの山の手前を左に回れば、古来、聖なる湖として名高いあのフブスグルの湖畔に出ます」
と教えてくれた。
モンゴル高原にある多くの湖は水が塩っぽい塩湖だが、フブスグルは違う。
――そうか、キルギス族にとっても聖なる湖なのか。するとあの高い山はムンク・サルディクだな。
と、メナヒムは得心したようだった。
「この先にある湖の周辺を見て回って、今夜から二晩、湖畔に泊まる」
先ほど起きたばかりなのに、みなに泊まる場所を知らせ、先頭を行くハカスの若者に追いついた。
本当にゆったりとした旅路だった。そのため、武器の調達を焦る単于という印象を与えることがなく、案内の兵もそうとは考えていないようだった。
少し上っている丘を歩むようにして進むと、やがて目の前に広々とした土地が現れて、朝の光に輝く美しい湖が見えてきた。白樺の疎らな林が見える。ナオトには妙に懐かしかった。善知鳥の西山でシラカバの樹皮を集めたのはもう一年も前になる。
遠くに高い峰々を控えた低い前山に三方を囲まれ、フブスグル湖は清浄な水をたたえて静かに横たわっていた。まさに、青い水だった。
「その水は飲める」
みながそう言うので、ナオトは水筒を集めて小さな石で埋め尽くされている岸辺を水際まで歩いて行った。いつもと違って、エレグゼンも付いてきた。水をすくって口に含む。顔を見合わせて、「うまい」と言った。
左賢王の家族を護るという役目柄、ここは、メナヒムが一度は訪れなければならないと考えていた場所だった。
――思わぬ機会を得た。一日掛けてここを調べてみよう。
湖の東岸の広々とした原をまず北に走り、大きな岩山が迫ってくるように感じたところで取って返して、今度は南に向かった。低木の密集があると避けて湖から遠ざかり、再び小石の岸辺に近づく。少し高くなったところを泊地に選んだ。
――大きな部隊を伴って来るときには、今朝見た北にある平地に宿営すればいい。あそこなら、丁零の営地までは一日と少しで行ける。水もある。いざ守るとなったときにも備えのしやすい場所だ。
南北に長い、大きな湖だった。とてもそこまではいけないが、湖の南端に発するエギーン川は、ぐるりと東に回って匈奴に馴染みのセレンゲ川に合流し、最後は北の湖へ注いでいるという。
――バイガルに向かっているときに渡ったあの川だ。なるほど、そういうところに来ているのか。
エレグゼンを介して伝え聞いたナオトは、一人そう思った。
辺りはそろそろ闇に包まれようとしている。みなが林間に適当な場所を見つけ、思い思いに休んだ。湖面が星明りに照らされ、遠くでオオカミの吠える声がした。不思議と、その声を聞いてもナオトはいつもの怖いという感じを抱かなかった。
清々しく晴れた翌朝、七騎は、湖を左に見ながら昨日の岩山に向かってゆっくりと北に進み、草の茂る原を見つけてはこまめに休止した。馬がその草を食む。夏の牧地を出てすでに十日が過ぎた。馬をじっくりと休める頃合いだった。メナヒムが替えの馬を交互に使うと決めた。
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