『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[207]匈奴の友との別れ
終章 別れのとき
第1節 ナオトの決意
[207] ■3話 匈奴の友との別れ
このままではナオトは殺されてしまう。鉄剣の作り方を知ったからには、メナヒム伯父はきっと生かしてはおかない。逃がさなければと、エレグゼンは密かに考えを固めた。
いつも通りの豪放なふるまいはなんら変わらない。そのような思いを抱いているとは誰も気付いていないだろうと、エレグゼンはそう考えていた。
――しかし、ザヤに悟られないようにしなければ……。
エレグゼンは、心持ち、ザヤを遠ざけるようになった。
――ナオトは、もともと、西のペルシャに行きたいと言っていた。ハミルに行くと告げたときのあの顔を、吾れは忘れてはいない。それに、ナオトはソグドの言葉をそれなりに話す。ならば、ソグディアナに逃がそう。東のヒダカから来たナオトが、まさか西に向かうとは誰も考えないだろう……。
メナヒムがバフティヤールを連れて居延城の近くまで行くと聞いて、エレグゼンは何かを感じ取り、そう心に決めた。
ザヤは、しかし、とうに気付いていた。何しろ、父親のメナヒムは同じゲルで寝泊まりしている。様子が違えばすぐにわかる。それが、ナオトが鋼の剣を作ったためだということもすぐにわかった。
――ナオトの何がいけないのだろう。もしや?
答えはすぐに出た。エレグゼンの態度がよそよそしくなったからだ。しかし、まさかナオトが殺されるとまでは考えなかった。ただ、遠くに送られるのだと思った。
――ナオトは北に行く……。
若い娘たちの集まりでもそういう話が出るようになった。ナオトが来て二年になる。だが、ザヤとの間で何かが進んでいるという気配はない。もう、気兼ねする娘はいなかった。
「ザヤ、あんたとナオトはどうなってるの?」
「わたし、声を掛けてみようと思うけど、いいの?」
ザヤは、微かに笑うだけだった。若い女たちはすぐに察した。
「ナオト、どっかにやられるの?」
「単于のところとか? それとももっと北の方?」
一緒に少女期を過ごした娘たちに遠慮はなかった。
「あんた、よく信じて待っていられるね……」
そう囁かれても、ザヤは動じない。信じてなどいるのではなかった。
――陽は、明日の朝、あの梢の先から昇る。昇ると信じているのではない。ただ、昇るのだ。それと同じことだ。
戦さが続いているとき、下の水場でナオトは、「もしここを離れるようなことがあってもきっと戻る」と言った。だから戻る。ナオトの心根はわかっている。信じているのではない。そうなるのだ、陽が昇るように。そして待つ。それだけのことだ……。
草原にヒツジを追いながら、ザヤはそう考える。
――そんなこともわからないの。百頭に一頭というような良い馬は決して手放してはいけない。そういう馬は、もしいなくなっても必ず戻る。昔、父がそう話してくれた。いい馬と掛け合わせれば、外れることなく、良い仔馬が生まれる。ナオトは、一万頭に一頭の馬だ。見ていてわからないのだろうか。何のために匈奴の娘に生まれたのだ……。
ザヤは、だから、周囲から全くかけ離れた態度で、ナオトを見守り続けた。
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