見出し画像

『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[055]北に逃れる

第3章 羌族のドルジ
第2節 山東半島の羌族
 
[055] ■2話 北にのがれる
 急がなければ一族に害が及ぶと見た祖父の動きは素早かった。
 息子夫婦と話し合い、孫のドルジと姉の五騎で海沿いを北に向かった。何百年もの間、一族で守り育ててきた牧地を捨て、一族の者たちと郎党に別れを告げるいとまもなく、身に付けられるものだけを持って追われるようにして向かった先は往古の東胡トウコ、いまのフヨの西の丘陵地帯だった。そのとき、ドルジはまだ八歳だった。
 斉国の遊牧民と騎兵を束ねるドルジの祖父は、山東の北に広がるエン国以北の地理に通じていて、前々から、「もし逃げるべきときが来たら北へ」とごく近い者たちに命じ、また、自ら備えてもいた。
 一行は燕の国境くにざかいを越えて北に進み、迷わず遼河リョウガを北に渡って大興安嶺ヒンガン山脈の南麓に向かった。そこまで、急げば斉からは馬で十日余り。目指す草原は、その頃のフヨの都から西に五日のところだった。
「わしの祖父の弟は、昔、東胡の地に向けて去った。いま我らはそこを目指している」
 と、道々、祖父が口にした。それを聞いたドルジの父が、その言葉を決して忘れないようにと幼いドルジをさとした。
「父が言う東胡の地とは、いまのフヨだ。よいな、ドルジ。もし我らに何かあったときには、お前が、母と姉を連れてその地まで逃げ延びるのだ」
 そのヒンガン山脈の南麓の西側には匈奴ヒョンヌがいて、片や、東側には鮮卑センピがいる。これら二つの部族に挟まれ、また、交わるようにしてキョウ族が遊牧している。これら三つの部族は広く豊かな草原では相い争うことがなく、むしろ助け合って暮らしているという。ここならば漢の手が及ぶことはないと祖父はみた。
 父が、行く手に物見に出るなどし、また、羌族の姿はないかとみなで四方を探りながら、祖父に率いられたドルジの一家はどうにか目指す草原まで行き着いた。はたしてそこは、羌族と匈奴、鮮卑の別なく、ヒツジや馬を養う緑豊かな牧地だった。

 いままで抑えていたものを解き放つようにして、ドルジは、一家がフヨにやってきた事情を語った。岩に掛けた濡れた上衣は、夏の日射しにもう半乾きになっている。
 長いこと黙って聞いていたナオトが尋ねた。初めて聞く言葉が多く、わからないことばかりだった。
「ドルジ、斉からフヨの原に落ち着くまで、合わせて何日旅したのだ?」
「住まいを定めるまで、二十日余りだろう。しかし、吾れはまだ八つだったので、あまりよく覚えていない」
「その間は、ずっと馬の上か?」
「ああ、そうだ。馬を休ませるときと、寝るときは違う」
「……。食い物はどうするのだ。腹が減るだろう?」
「ムギさえあればどうにかなる。遊牧民はどこにでもいて、ムギをヤギの乳や馬乳酒と換えてくれる。れら遊牧民はそういうやり方に慣れている」
「いやぁ、二十日も馬で逃げるなど、どういうことか吾れには考えもつかない……」
「後になって思えばつらそうだが、そのときは逃げるのに精一杯だった」
「それで、身を寄せようとした相手は見つかったのか?」
「祖父の大叔父か? いや、見つからなかった。そこら一帯を探し回って羌族は見つけたのだが、吾れの一族ではなかった。昔、牧地にしていた丘と草原はあの辺りだと教えてくれたが、別の場所に移った後だった」
「そうか……。ヒンガン山脈というのはここから見てどの辺りにあるのだ?」
「……。そこの丘を越えて、真西に二、三日行くと広い草原に出る」
「フヨの都の方角か?」
「そうだ。その都を過ぎてなお西に五日行く。ところどころに沼や湖がある平らな土地だ。冬には凍る。そこを越えると行く手はるかに南北に延びる青い山並みが見えてくる。それがヒンガン山脈だ」
「馬で行くのか?」
「はははっ。ナオト、フヨには歩いて草原をわたる者などいない」
「そうなのか……。ヒダカでは、歩くか、泳ぐか、舟しかない」
「……。ナオト、お前は泳ぎがうまいそうだな?」
「そうかな。吾れは海で育ったからな。誰に聞いた?」
「浜では誰でも知っている。あの島まで泳いで渡って、あっという間に戻って来たと、見ていた者たちが触れて回った。浜の者は、そんな男はこれまで見たことがないと話している」
「そうなのか……。ヒダカでは、泳ぎができなければ舟には乗れない。舟に乗らなければ食っていくのは難しい。……そうか。フヨで馬に乗れないのは、ヒダカで泳げないのと同じようなものか」
「……」
「では、ドルジ、またそのうちにな」
 と言って、ナオトは浜に帰って行った。
 
 一つため息をつくと、ドルジは木陰に繋いだ鹿毛かげの傍らに横になって昼寝した。
 ――いろいろと考えて疲れた……。
 日暮れ前、川の瀬音に目が覚めたドルジはゆっくりとクルトの牧場まきばに向かった。馬の背で揺られながら、先刻さっきナオトに話したことを一つずつ思い返してみる。
 祖父と父に聞いたことや母に聞いたこと、フヨの入り江にやって来る道すがら、ヨーゼフやクルトと語り合ったことをいま改めて口にしてみると、「そうだったのか」と意味のわかることが多かった。そして思った。
 ――ナオトに話してよかった。なぜか気が晴れた。次に会ったときに、いろいろと続きがあると言ってまた話してみよう。しかし吾れは、なぜナオトに話そうと思ったのだろう……。ヒダカ人だからだろうか? ナオトは吾れの話の半分もわからないように見える。そのためだろうか……。

第2節3話[056]へ
前の話[054]に戻る 

目次とあらすじへ