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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[022]舟の進む向きを変える
第1章 西の海を渡る
第7節 船出
[022] ■3話 舟の進む向きを変える
六日目の朝。日は指三本分だけ昇っている。なおも帆走を続け、ときおり西に向けて力を合わせて漕ぐ。これをしばらく繰り返した。
日が中天を過ぎた頃、潮の色と日の位置とを見比べ、風向きをしきりに気にしていたカケルが、大きな白波はないと確かめた後で、
「えーんやーっ」
と、声を掛けた。気配から察していた舟子たちが、
「せーいっ」
と呼応し、調子を合わせて舟の右側と左側とで逆向きに漕ぎはじめた。ナオトは前の漕ぎ手を見習う。
カケルとタケ兄の二人が、十一人の舟子の整然とした動きに合わせるようにして手綱を引き、前の帆を動かして舟の進みを止めようとしている。後ろの帆の張り綱は緩め、風を逃す。
ようやく前の帆が閉じた。舟は動いているかどうかというほどになり、漕ぎ手の働きで、次第に向きが変わってきた。二人が帆柄の両端に結んだ手綱を引いて前の帆を再び開いたとき、黒竹の帆桁の向きがさっきまでとは大きく変わった。
前の帆を固定し終えたところで、再び、「えーんやっ」の合図で舟子が一斉に同じ向きに漕ぐ。左右の二艘を繋ぐ貫木と帆柱とがギシギシと音を立て、帆が新たな風を捉えたとわかった。
海面が穏やかとはいえ、荷を一杯に積んだ重い舟体を操るのは大仕事だった。しかし、いつの間にか潮目が逆さになり、先ほどまで南から吹いていた風も東寄りに変わって、舟はようやく進む方向を北から南西へと変えて走りはじめた。
六度目の夕餉を済ませた。まだ雨はない。汁物が多いので、トキ爺が水の残りを気に掛けはじめた。
みなが一息ついているときに、ナオトが、潮の流れが南向きに変わるのをどうやって見分けるのかと舟尻に座るカケルに向かって尋ねた。すると、何事でもないというようにカケルが一言で答えた。
「海の中を川が曲がりながら流れている」
しかしそれを聞いても、ナオトには何のことかよくわからなかった。それを察したか、カケルが呟くように、しかしナオトの目をじっと見ながら言った。
「海は、嘘と過ちを決して見逃さない。吾れは、いままでに二度、その過ちを犯して死ぬ目に遭った。友を失い、大事な舟子仲間を何人も失った。しかし、吾れが誠を貫けば、必ず、海は行くべきところに連れていってくれる」
聞こえたのか、聞こえないのか、他の舟子はみな押し黙っていた。
ナオトは、カケルが何を語っているのか、みな事情を知っているのだと思った。しかし潮目については、彼らにもどういうことかわかってはいないなと、ナオトはすぐに感じ取った。
小屋の前に座り、舟子たちから集めた椀を片付けていたトキ爺が、潮風で嗄れた声でみなに聞こえるように言った。
「だからカケルは吾れらの舟長さぁ」
十三湊を出て八日目。晴れ渡っていた空に夕べの翳りがきざして、ぽつぽつと星が見えはじめている。
カケルが前にいるタケ兄に向かって、「深さを測ってくれーっ」と声を掛けた。
すると、若い舟子が二人、帆柱を受ける井桁の脇に置いてあった石の錘を、麻綱がしっかりと結び付けてあると確かめてからタケ兄に渡した。海に入れる綱は三十尋を超える長さがあり、重い。
目が合ったナオトに、カケルが話し掛けた。
「あの大きな錘を、吾れらは測りと呼んでいる。海の上で深さを測るときや湊に舟を泊めておくときに使う」
「釣り竿に付ける錘ですね。ずっと大きいけれど」
「そうだな、形は同じだ……。陸が近いと海は浅くなる。それをタケ兄が測ってくれる。もう、陸はすぐそこだとは思うが、念のためだ」
「上げるのは大仕事ですね」
「濡れて重くなるからなぁ。あの柄のついた柱に巻いて、四人掛かりで回して上げる。慣れた者でなければ上がらない……。ところでナオト、あの星はわかるか?」
カケルが指した空高くに北の星がかすかに見えている。そう答えると、
「どちらに進むか、吾れら梶取は星を見て決める。あの星が見えない晩には、吾れらは海には出ない。ヒダカに戻れなくなるという言い伝えがあるのだ。だから目当て星ともいう。一度西の海に出てしまえば、星が見えても見えなくても、あとは進むしかないがな……」
――目当て星か。山当て、島当てと同じだ……。
そのとき、緑の葉を付けた細い枝が南に向けて流れていくのを錘を下ろしはじめたタケ兄が目ざとく見つけ、腕を振りながらカケルに大きな声で伝えた。舟子たちがざわつき、目指す陸はそう遠くないとナオトにもわかった。
「測りを下ろすのは止めだーっ」
しばらくすると、日が落ちた辺りに薄っすらと陸らしい影が見えてきた。その手前に白く波打つ小島と岩根とが見えている。
「陸が見えたぞーっ。フヨの入り江まではもう少しだ」
と、カケルがみなに声を掛けた。
舟は、潮に任せて南西に進んでいる。
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