『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[052]第3章 羌族のドルジ
安達智彦 著
【第3章の主な登場人物】
ナオト ∙∙∙∙∙∙∙∙ 大陸の国フヨに渡ったヒダカ生まれの青年。なお西を目指す
ドルジ ∙∙∙∙∙∙∙∙ 生まれた漢からフヨ国に移った羌族の若者。ヨーゼフの配下
ヨーゼフ ∙∙∙ フヨの入り江に住み、海を渡って来たナオトを助けるソグド商人
ダーリオ ∙∙∙ 日本海をヒダカ国に向けて渡ったヨーゼフの弟
セターレ ∙∙∙ アルマトイのソグド商人。昔、ヨーゼフ兄弟を助けた従弟
ウリエル ∙∙∙ 匈奴に住むヨーゼフの息子
クルト ∙∙∙∙∙∙∙∙ ヨーゼフを手伝う元騎兵。ドルジとは鮮卑の騎馬隊で戦友
ハヤテ ∙∙∙∙∙∙∙∙ フヨ国の海際の湊でカケルの交易を助けるヒダカ生まれの商人
カケル ∙∙∙∙∙∙∙∙ 双胴の舟に乗り、大陸と交易するヒダカの舟長。ナオトの義兄
「第3章 羌族のドルジ」のあらすじ
義兄のカケルがヒダカに戻る日、入り江の浜でナオトは大陸に残ると決める。
火焔のような形をした器とそれを作る陶工が見つかるかもしれないと、入り江の商人ヨーゼフの伝手で西の川沿いにある窯場を訪ねた。
窯元の老人から、そういう形の器はフヨでも漢の国でも見たことがないと聞かされたナオトは、フヨの入り江に戻り、ヨーゼフのために働くドルジという名の羌族の若者と親しく話をするようになる。
漢の海際の山東半島に生まれ、幼い頃にフヨの地まで一家で逃げてきたというドルジは他のフヨ人とは顔かたちが異なり、ソグド語と匈奴の言葉を話す。
一族に伝わるタナハという巻物を持つドルジは、自らをアブラムの子と呼ぶヘブライ人の末裔だという。ナオトは混乱した。ドルジは羌族なのだろうか。それともヘブライ人か? 「吾れにもよくわからないが、羌族に混じって生きるヘブライだと生前に祖父が言っていた」と笑いながらドルジが応えた。
ドルジは、漢という国の事情や昔あった大きな戦さのこと、フヨの都の造りとその西にあるヒンガン山脈にいる父母のこと、ウマやロバなどの生き物のこと、そして、遊牧民の暮らしぶりについて話してくれた。
戦さどころか、人が人を殺すなど聞いたことすらないヒダカ人のナオトにとって、ドルジの話はどれも、ヨーゼフの話と同じように、初めて聞くことばかりだった。
嵐が去った後の浜でドルジが吹いてくれた羌族の笛の音もまた、初めて耳にするものだった。 【以上、第3章のあらすじ】
第3章 羌族のドルジ
第1節 入り江の人々
[052] ■1話 浜で見た匈奴の若者とソグドの娘 【BC92年7月初】
ヨーゼフの世話になって、もうかれこれ一月になる。その間、柳の里の窯場を訪ねたのを別にすれば、ときどきハヤテの手伝いをするだけで、あとはフヨの入り江の周辺を見て回って過ごした。ソグド語を覚えようとドルジを捉まえてはその話に耳を傾け、夕べにはヨーゼフの話に聞き入る。
入り江のそこここで交わされるソグド語の会話はずいぶんと理解できるようになってきた。そのせいかナオトは、入り江の浜で聞き慣れない言葉を耳にすると、我慢できなくなって、どこの人で、何の言葉を話しているのかと尋ねる。
睨みつけて立ち去る者もいたが、知らない言葉で返してくれて、にこやかに肩を叩いて去った者もある。だいたい三日に一度くらいは、見知らぬ顔付きの者と出会い、挨拶を交わす。
――吾れは、人とはあまり話をしない性分だったのだが……。
近頃、ふと、そう思うことがある。しかし、いろいろな人々が集まっているフヨの入り江とは、人と人とが話を交わし、知っていることをやり取りする、そういうところだった。
昨日は、入り江の北の磯で魚を突くときに撒く餌にしようとカニを探していた。すると、ナオトと同じような年恰好の者が数人現れた。一人だけ、長い毛皮の服を頭から被るようにしてまとい、残りはそれを脱いで馬の背に掛けている。
磯でうごめく小さなカニの姿に興味を引かれたらしい。人数を恃んでの気安さからか、なんとか話を通じさせようとしてくれたのだが、全く無駄だとわかって互いに顔を見合わせて笑ってしまった。朗らかな者たちだった。
その四人の若者は、馬を引き、笑い声を引き摺るようにして西の森に消えた。そのうちの一人が振り向きざまに大きな声で何とかと言って、片手を高く挙げた。
――また会おうとでも言ったのだろうか……?
浜には女もいた。いるにはいたが、みな、ヒダカの女とは様子が違っていた。何か、こう、険しい顔付きをしている。接するというほど近くに寄ったことはないが、それにしても、あまりにも剣呑だった。
――吾れの着ているものや顔付きが違うからだろうか。それとも、毎日の暮らし向きがそうさせるのか……?
そんなことが続いたある日、いつもの岩に腰を下ろしたナオトは、浜を急ぐ一人の娘の横顔にハルの面影を追う己に気付いた。
突然のことだった。浜で見掛ける白い衣のフヨ女とはおよそ違っていた。装いが、どこかヨーゼフを思わせる。裾の長い砂色の衣を身に付け、丸めて留めた長い髪を青い布で覆っている。踝は、膝近くまである革の長靴に隠れて見えない。
ナオトは、まだ見たことのないソグドの女ではないかと、ふと思った。
その背を目で追っていると、市のある北の方まで戻って行き、馬に乗って引き返してきて、そのまま西に去った。
家の裏庭で飼う何頭かのヤギの乳を加工して入り江の市まで運び、その品々を穀類や肉、野や海の物に換えて持ち帰る。娘は、そのために五日に一度は市に来る。しかし、今日のように浜を行き来することは稀だった。
もとより、ナオトはそのようなこととは知らない。
その後の数日間、沖にある島まで泳いで渡れそうな入り江の岩場に座り、同じ娘が現れはしないかと気を揉んで、待つでもなく待った。ナオトは遠くのものを見分けるいい目をしているが、それでも、その娘を浜の通りに認めることは、それ以後ついぞなかった。
――ハル……。いま頃、ハルは何をしているだろう。吾れがいなくなったと気付いているだろうか?
日射しがいよいよ強くなって、雲の形はもう真夏だった。
磯で待つのに飽いたナオトは、下帯一つになって沖の島に向けて泳ぎはじめた。水は冷たいが、それがかえって心地よい。
ナオトは知らなかったのだが、この浜に、島まで泳いで渡ろうという者はいない。潮が早すぎて流されると知っているからだ。
泳ぐナオトに気付いて、浜人が何人も渚に集まって来た。向こうの島の砂浜に泳ぎ着いたナオトが、夏の日射しに熱い砂の上に立ち上がってこちらを向くまで、みなでじっと見守っていた。
あのソグドの娘もその中に混じっていた。だが、あまりにも遠く、さすがのナオトにも見分けることはできなかった。それは、浜から見る者にとっても同じだ。ナオトの顔は、その娘からは見えなかった。
入り江の市で仕入れたものを馬の背に掛けたヘーベ――袋状の運び具――に入れて父が営む宿屋まで戻った娘は、夕餉の席で沖の島に泳いで渡った若者の話をした。母も父もまさかという顔をして聞いている。
「ここに住むようになってからずいぶん経つけれど、そんな話は初めて聞く」
「フヨの者はあの海で泳ぐことなどない。他所から来た者だろう」
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第3章の目次 【各節の初めへ移動するためのリンク】
第3章1節 入り江の人々 [052]冒頭 へ
第3章2節 山東半島の羌族 [054] へ
第3章3節 龍の岩山 [059] へ
第3章4節 入り江の嵐 [062] へ
第3章5節 アルマトゥから来た男 [065] へ
第3章6節 ヨーゼフ兄弟が目指した東の地 [072] へ
第3章7節 ソグド人の宿 [075] へ