『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[058]ドルジ、ヨーゼフと会う
第3章 羌族のドルジ
第2節 山東半島の羌族
[058] ■5話 ドルジ、ヨーゼフと会う
祖父が斉から乗って来た見事な馬が牧場を走っていたので、種付けするようにとヨーゼフが強く勧めた。前にも同じように勧めたので、二度目だった。
「騎馬隊の隊長からも同じことを言われている」
とドルジの父が応じた。
それ以後ヨーゼフは、仔馬を都の近くまで引いて行って売り捌き、冬を越すのに食糧が不足だろうと考えて、いつも秋口に訪れてはラクダ一頭分の穀類の袋を下ろして一家に渡すようになった。クルトと再会した秋も、そのために父のもとにやって来たのだった。
騎兵になったドルジが燕へと旅立った後も、結局、ドルジの一家は馬を育てて生き延びた。そしてそれが、ヨーゼフとドルジをこの地で引き合わせた。
初めて顔を合わせたドルジの容姿は、いままでに見た多くの羌族のうちでもとくに自分らの一族に似ているとヨーゼフは思った。
――やはり、同族だ……。
ドルジを交えてクルトといろいろ話すうちに、クルトが一家と深くかかわるようになった経緯に話が及んだ。食い物が尽きて、これでは冬は越せないとドルジが鮮卑の部隊を訪れたとき、クルトが取りなしてくれて食糧を分けてもらうことができたという。
鮮卑に限らず、騎馬隊がそのようなことをしたという話をヨーゼフはそれまで聞いたことがなかった。ドルジたちが納める馬はそれほどに優れていたのだろう。
――それにしても、昔から知るクルトがわしの同族のドルジの一家を救ったとは……、
と、ヨーゼフは驚き、きっと何かの導きに違いないと心の奥底で感じた。
どうしても若いドルジに自分の商いを手伝ってもらいたいと思ったヨーゼフは、そのためにはクルトを手元に置くのがいいと考えた。ドルジはクルトに心酔し、恩義を感じてもいると見て取ったのだ。
「クルト。そのうち、騎馬隊に戻るのか?」
「いや。吾れが騎兵を辞めたのは怪我をして弓が引けなくなったためだ。騎馬隊に戻ることはもうない」
「それならば、クルト、わしの商いを手伝ってみないか?」
喜んで誘いを受け入れたクルトは、
「ドルジ、一緒に行かないか?」
と声を掛けた。こうしてドルジは、クルトとともに海際の入り江に移ることになった。それはいまからおよそ五年前、ドルジはまだ十九歳だった。
二人はいま、フヨの入り江でヨーゼフを助けている。年に一度、父母のもとにムギを届けて仔馬やロバを受け取るのはいまでは若いドルジに代わった。ソグド語と匈奴の言葉を話すドルジは、通詞を務めるために、北の入り江や、さらに遠いハンカ湖まで馬で数日掛けて行くこともある。
一方、ヨーゼフの蔵の守りを任されているクルトは、入り江近くの丘に牧場を置いて馬を何頭も飼っている。ヒダカ人のハヤテが匈奴や鮮卑の動きや物入りについての話を聞き取る相手は、第一に、そのクルトだった。
馬上で物思いに耽っていたドルジは、鹿毛の足が早まって、はっと我に返った。クルトの牧場が近くなると、嗅ぎ慣れた臭いのためか、いつも様子が変わる。
――仲間が恋しいか? かわいい奴め……。
ドルジは、そこでようやく腹が減ったと気が付いた。西の空が茜色に染まっている。明日も、暑い一日になりそうだった。
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