『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[053]川で馬を洗うドルジ
第3章 羌族のドルジ
第1節 入り江の人々
[053] ■2話 川で馬を洗うドルジ
朝早くからハヤテを手伝った日の昼下がり。
柳の里からの帰りに通った道を、ナオトは西を指して走った。先日、己の足で踏んだあの峰が右手に見え隠れしている。左手に広がる草原の先に岩の壁が見えてきたところで引き返し、川沿いに戻って来ると、都に行っていると聞いていたドルジが川で馬を洗っていた。
気配を感じて顔を上げたところに、ナオトが声を掛けた。
「おーい、ドルジっ」
「おお、ナオト。お前、西の原まで走って行ったのか?」
「ああ……。久しぶりだな。都からの帰りか?」
そう応じてナオトは川原に下り、恐る恐る鳶色の馬の背に触れた。それを目の端で見て、ドルジが微かに笑った。
「ああ、先刻戻ったところだ。西の原は、どこまで行くのだ?」
「いつも、岩の壁が見えるところまで走って、引き返す」
「岩の壁? ああ、龍の岩山だな」
「ルゥオ……?」
「あの岩の壁を、この辺りの者たちは龍の岩山と呼んでいる。そのうちに、あの山の上まで連れて行ってやろう」
川水で濡らした麻布を絞って馬の背を拭きながら、ドルジが続けた。
「ナオト。前にヒダカ人は人を殺めることはないと言っていただろう? あれは本当のことか?」
「ああ。本当だ。見たことも聞いたこともない」
「そうか……。あれから気になってな。都から帰る馬の上でずっと考えていた。犬には、同じ犬同士で噛み合うものと争わないものとがある。なぜかは知らぬが、生まれつきそうなのだ。それと同じなのだろうか? ヒダカ人は争わない犬なのか?」
「はははっ、ヒダカ人は争わぬ犬か……」
「ああ、お前の話を聞いてそう思った。吾れはずっと争いを好む犬の群れの中で暮らしてきた。吾れが生まれた漢の斉という国ではいつも戦さをしていた。争いを仕掛けてくる北や西の者たちに、祖父たちがまとまって挑み返す。
犬の群れが、別の犬の群れと争うようなものだ。殺し合い、傷つけ合う」
そのとき、ゴリッという音がドルジの心の中で鳴り響いて目の前が一瞬暗くなり、あの白兵戦の光景がぱっと広がった。あの日の戦いは忘れようとしても忘れられない。ドルジはずっと、人には言えぬまま、一人で苦しんできた。
六年前の秋。ドルジが属する鮮卑騎馬隊の主力は、逃げる燕軍を追って大きな川を渡り、南に向けて進軍していた。
隊長の命令によって物見に出たクルトの小隊は、二つ目の川の手前で逡巡する敵の大きな部隊と遭遇した。任務は物見だ。戦いは避けようと馬首を返して急ぎ北に戻ると、西から来た燕の別の歩兵団が前に回って射掛けてきた。待ち伏せだった。
クルトは騎馬隊で一、二を争う射手だった。強弓を引く。ドルジを含め、その小隊には弓をよくする者が多い。この人数ならばと馬上で応戦して、北の川まで退路を開こうとした。
そのとき、南から追い付いてきた敵の大部隊が空を覆うほどに一斉に矢を放ち、その一本がクルトの左肘を射抜いた。狙いも定めずに放った矢が、狙っても当たらないような肘当ての隙間を捉えた。
クルトの握りが思わず緩み、弓を落とした。この小隊でクルトの弓がないのは痛い。いつも戦場でクルトに救われてきたドルジは、迷わず、その弓を拾い上げようと馬を下りた。部隊では、決してやってはならぬと戒められている行為だった。
戦場での経験が浅いドルジは、逃げると見えた歩兵部隊が、よい将軍に率いられて素早く引き返すことがあるのを知らなかった。しかも、小数とはいえ、燕軍には騎兵が混じっている。追われて逃げていたはずの敵が、すでにすぐそこまで迫っていた。
ドルジは、手綱を放すまいと気をとられ、飛んでくる矢を避けるのに精一杯で、さらに、クルトの弓に手を伸ばそうと体を伸ばし切っていた。
追いついた敵の先鋒がドルジの首を狙って戟を振り下ろした。わずかに逸れて、屈んだドルジの頭部を捉えた。ゴリッという気味の悪い音が頭鉢の内に響いた。
泥まみれの敵騎兵の膝と馬の蹄が、ドルジが目にした最後のものだった。
――あのとき、一瞬、吾れはここで死ぬのだと思った。
その場で昏倒し、あとは覚えていない。我に返ったときには最初の川の手前に設けた屯営の中で横になっていた。隣りにいて気付いた仲間が、一声掛けてからクルトを呼びに行ってくれた。
――そうか、クルトは無事だったか……。
そう思った途端に、全身がぶるぶると震え出した。
後で小隊仲間に訊くと、クルトは倒れたドルジの甲冑の首元に指を掛け、矢傷を負った左手で引っ掴んで自分の馬に引き摺り上げた。
頭の傷を確かめ、襟元から引っ張り出した麻布でぐるぐる巻きにして血を止めると、そのまま、何本か敵の矢を背に受けながら川を渡ったという。入隊のとき母に、「ドルジは吾れが守ります」と言っていたそのままだった。
頭の傷はどうにか癒えた。しかしドルジは、傷痕をいつも布で覆って人に見せないようにしている。そして、いまでもときどき、あの目の前に迫る敵兵の泥で汚れた膝頭を思い出す。
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