『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[076]宿の娘、アーイ
第3章 羌族のドルジ
第7節 ソグド人の宿
[076] ■2話 宿の娘、アーイ
そのときナオトの目に、あの浜の娘が飛び込んできた。浜で見たときとは見違えるような、足元まで覆う小豆色の長い衣を着ている。袖が指先に余るほど長い。丸めて留めた黄褐色の長い髪を、鮮やかな青の小さな布で包んでいる。
出会い頭だった。
「あら、ごめんなさい」
と、心持ち頭を下げた娘をじっと見つめた後で、ナオトは一瞬、どうしたらいいかわからないような仕草を見せた。うろたえたか、気後れしたのか。本人にもよくはわからない心の動きの後に、ナオトは、すぐにいつものナオトに戻った。
しかし、隣りに立つヨーゼフはすぐに気付いた。
――なんだ、そうか。そうだったのか……。
その宿の娘の名はアーイといった。ドルジと将来を約束した娘だとヨーゼフは知っている。老いたとはいえ、心は鈍っていない。ヨーゼフは、何とも言いようのない気持ちになった。
ナオトはソグド語がわかる。娘がドルジと短く言葉を交わすのを聞いて何かを感じ取り、それ以後、あの浜の娘がここにいるといった想いを抱くことはなかった。そういう感情を押し込めようとしたわけではない。ただ、夢から覚めたようにして、
――そうか……、
と気付いたのだった。
しばらくすると、一度奥に下がった娘が食堂に戻ってきて、再びナオトの目に入った。
――やはりハルに似ている。横顔はとくに似ている。少し小柄なところも同じだ……。
娘とドルジが楽しげに話すのを目にしたナオトは、二人が恋仲だと知った。娘に向けた想いは、いましがた心の裡から締め出したはずなのに、なぜか、ナオトの心は揺れた。
もともと、娘とどうこうという考えはナオトにはなかった。幼馴染のハルと横顔や背格好が似ていて目に留まったというだけのことだった。ただ、そのような心の動きは、娘へのほのかな想いと区別がつかない。
しかし、あまり笑うことのないドルジが頬を緩め、そのドルジの言葉にじっと聞き入る娘の様子を見て、ナオトの淡い恋心は生まれたと思う間もなく、消えた。
暗くなる前にと蔵まで帰るとき、走って先に着いたナオトは二人を待った。ゆっくりと進むヨーゼフのロバに合わせてドルジの鹿毛が歩く。蔵の前で二人を迎え、ヨーゼフの様子を見ると、久しぶりの遠出に疲れたようだった。
「また、明日の朝」
と、ヨーゼフは戸口に消えた。ナオトは、
「そこまで送ろう」
と、鹿毛を引いて牧場に戻ろうとするドルジと並んで歩きはじめた。
「ヨーゼフのお陰で、今日はいい日だった。一緒に来てくれてありがとう、ドルジ」
「あの宿の炙り肉はうまい。吾れはいつも楽しみにしている。今日の大皿にはシカもウサギも載っていた。ナオト、ウサギを食ったのは初めてだろう?」
「いや、ウサギは食ったことがある。ヒダカでも食う。食ったことがないのはイノシシだ……。ドルジ、吾れは西に行くかもしれない。すぐにではない。しかし、どうしても行ってみたい。匈奴という国を、一度、見てみたいのだ。今日、ヨーゼフと宿の主との話を聞いていてそう思った」
黙ってナオトを見遣ると、ドルジが静かに言った。
「吾れは、ずっと斉に留まっていたかった。フヨに来てからも、いつだってそう思って暮らしていた。吾れはそういう男なのだ。しかし、どうすることもできず、幼い頃に斉を離れた。
ナオト、お前は吾れとは違う。留まっていていいというのに、わざわざヒダカを発って海を渡った。このフヨの次にはもっと西の匈奴を目指すという。お前は、そういう男なのだろう。だが、どこにいようとお前は吾れの友だ。真にそう思う。そう思っている限り、どこかでまた、吾れらは出会う」
なぜか、ナオトの瞼の端に涙が溜まった。これまでなかったことなのでナオトは少しうろたえた。しかし、すぐに気付いた。
――そうか、ドルジは友なのだ。だから別れて匈奴に向かうのがつらい。だから吾れは、こうしてずっと前から西に行くとドルジに告げている。
ドルジの馬が丘を下っていく。沈む夕日は蔵からは見えない。だが、その光に照らされて、東側にある海が枝葉の間から見えている。ちょうど、入り江の北にある小島に西の山の影が差すところだった。
この日のことがあってから、気が付かない間に、匈奴やバクトリアを見てみたいというナオトの想いはいよいよ強くなった。
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