『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[081]ハンカ湖に続く水路
第4章 カケルの取引相手、匈奴
第2節 舟路を急ぐ
[081] ■1話 ハンカ湖に続く水路
夜明け前に宿を出て海に漕ぎ出し、湾の北奥にある河口からハンカ湖方面へと続く水路に入った。このままいけば、三日目の朝にはハンカ湖西岸に出る。
この、川とも沼ともつかない水路を行くときには、いつも虫に悩まされる。フヨ人の梶取が、臭いのきつい何かの草を丸く結わえて作った輪を舟に用意してくれていた。「首に掛けろ」と言う。みながすぐに従った。
三日後。ハンカ湖に着いた一行は会所の宿で一日休み、何人かの舟子と舟一艘をそこに残して、湖上をなお北に向かった。
「この湖をここまで来るのは吾れも初めてだ……」
と、カケルが誰にともなく言った。
ハンカ湖は大きな湖だった。ヒダカで見知った湖とは違い、水辺に迫る高い森はない。遠く西に見える小山を別にすれば、見晴るかす彼方まで低地が広がり、色はといえば、限りなく続く空と水の青。わずかに水草と遠くの木々が濃淡の緑を見せている。あとは枯れた草葉の黄色と土色だ。
前の晩、ゆっくりと休んだためか、カケルは見るからに生き生きとしていた。
ハヤテが昨日来の話を続ける。
「ハンカ湖の北まで行って荷を受け渡すのにそれほど人手はいらない」
「確かにそうだ。しかし、匈奴との初めての取引なので舟子の数は揃えておきたいところだな」
「吾れもそう思った。だから受け渡し場所までは、一艘で間に合う小舟を二艘にして九人で行くことにした。ハンカ湖の北は会所のある南に比べて物騒だと土地の者が言うので、舟を漕ぐよりも弓矢を使う方が得意だと前から聞いていた二人に同行してもらっている。お前が見てよさそうならば、これからも一緒に働いてもらおうと思う。
本当に危ないのは、取引に手間取って、受け取った金を手元に置いて白棱河の舟寄せでもう一晩泊まるとなったときだろう。いざというときには急いで川に出て下り、湖に逃げようと思う。いずれ、会所までは空舟だ。舟足は速い。もし舟で追われても、吾れらの梶取が後れをとることはない。
舟が二艘ともなくなっては危ういので、舟寄せに預けるときには一人見張りを立てる。残ってもらう梶取には、気になることが起きたときにはいつでも、一艘は川に流し、もう一艘を漕ぎ出して湖まで逃げて、一日待つようにと含んである。
カケル、お前は金を手元に置くのは避けたいと前から言っていたが、それも会所でフヨの鉄に換えるまでの間だ」
「そうか、わかった。なんとかなりそうだな」
「匈奴に護衛を頼めるようならば、次には松花江まで運ぶ途も考えてみようと思う」
「その護衛というのは、陸の上を数日掛けて行くとなったときのことだな?」
「そうだ。だが、舟で松花江まで行くことはできないかと、そちらも考えている。クルトが口にした『舟で川を遡るのは匈奴のやり方ではない』という言葉が気になってな……」
「松花江にある匈奴の駅まで舟で行けるということか?」
「いまこの舟の梶を取っているのは、小さい頃からその松花江で漁師をしてきた男だ。付き合いは長い。この辺りの川はいろいろな向きに流れているそうなので、北にいる鮮卑や息慎を避けて、どうにか会所から舟で松花江まで行く着くことはできないか訊いてもらっている。
一度に運ぶ量がどれほどかはこの取引でわかっただろう。もし行けるとして、使う川筋も舟も、お前がこっちにいる間にはっきりすると思う」
「よくわかった。ところでハヤテ、このたびの道筋は舟子たちには聞かせてあったのか?」
「ハンカ湖の北まで行くと、みなが知っていた。しかし、明日、匈奴との受け渡しの後にどう帰るつもりでいるかは誰にも話していない。受け渡す日も知らせていないので、今朝、集まるまで知らなかったと思う。
ただ、受け渡し場所が白棱河の近くだというのは、一月前に案内してくれたフヨの二人にはわかっていた。梶取と舟寄せを守っている家の息子だ。他に、匈奴とのやり取りを通詞として助けてもらっているドルジには、明日が受け渡しの日だと前から知らせてある。入り江から馬でやって来て、今朝、会所を出る前に後ろの舟に乗った」
「通詞のドルジ? おおっ、あのロバを集めてくれたという羌族のドルジか。ソグド語だけでなく、匈奴の言葉も話すのか?」
「ああ。あれは幼い頃に一家で漢から逃がれて来て、匈奴との境の地で育ったのだ。それで匈奴の言葉を話す。姉さんは匈奴の男と一緒になったそうだ。クルトと同じ騎馬隊にいたところをヨーゼフに誘われて入り江にやって来た」
ナオトは近くに座り、ずっと黙って聞いていた。
――そうか、ドルジはハンカ湖まで馬で来たのか……。ヨーゼフを助けているクルトの仲間たちは、潮の匂いのする土地で仕事をしているのにあまり舟には乗りたがらない。湾の北の端にある舟寄せにはいつも馬で行く。馬での行き来を好むのだろう。それにしてもドルジはあの会所まで何日掛かったのだろう……。
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