『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[183]イシク親方の鉄打ち
第7章 鉄剣作りに挑む
第6節 イシク親方
[183] ■4話 イシク親方の鉄打ち
鉄囲炉裏が空いていたので炉に火を入れた。
「炉の中の炭火のことを、わしらは火床という。寝るところを寝床というのと同じようなものだ。金床もそうだ……」
――火床か。ヒダカでもそう言う。
ここのフイゴはイシク親方がトゥバから持ち込んだものだった。鋼を鍛えるときに一人でも扱えるようにと工夫したものだという。木の箱に細工がしてあって、ナオトが使っている二枚の板を開け閉めするフイゴと同じように働く。
その箱型のフイゴは地べたに据え、四隅に石を置いて留めている。箱の真ん中に開けた吹き出し口に繋いだ筒を煉瓦の壁の下に通し、風が炉心まで届くようになっている。箱には引き手が付いていて、それを押したり引いたりして風を押し出す仕組みは、二つ板のフイゴと変わらない。
炭火から上がる炎を見ながら、親方はフイゴの取っ手の押し引きに合わせて、
「鋼には粘りがないとだめだ」
と、二度繰り返した。
「鋼の粘りは、叩いて折り返すから出るのだ。いいかっ、よく見ておけ」
テコを使って、イシク親方が自ら、合わせの技を見せてくれた。
鋼の小さな板がテコの上にいくつも重ねて載せてある。それを炭火に入れて熱し、鋼が黄色に輝いてきたところで取り出して崩れないように気を付けて金床に置くと、鉄ばさみで抑え付けながら鎚で打った。当たる位置を変えて何度も打つ。すると、重ねられたすべての板がなんとなく一つに合わさったようになった。
縦に挟んだり、横に倒したり、鉄ばさみを巧みに使い回すさまを、ナオトは親方の隣りで口を開けて見ていた。
――あんな数の小板が一つになった。合わせの技だ。これならば親方が言う通りに、砕けた鉄の粒を一つにまとめられるかもしれない。しかし、こんな熱い鉄をよくぞここまで……。
工人としての技よりも、イシク親方の強い心にナオトは感銘を受けた。
テコに載せた鋼を木炭を足した炉に戻して、フイゴを効かせ、炎が上がるほどにまた燃やす。しばらくして、黄色に輝く鋼を炉から取り出すと、鉄ばさみで挟んで細かく動かしながら鎚で何度も打って平たくした。
――金床がなくてはどうにもならない。これを吾れは平たい石でやろうとしていたのか……。
小さな何枚もの板が確かに一つにまとまったと見届けた後で、イシクは鉄ばさみを鏨に持ち替え、小鎚で打って金床の上に置いた平たい塊の真ん中に深い切れ目を付けた。
その切れ目の裏側を金床の縁に当てて鉄ばさみで抑え、鎚で何度か打って鋼の塊をやすやすと二つに曲げた。左手に持った鉄ばさみで回しながら、曲った鋼になお鎚を打ち下ろし、再び平たくした。親方の息遣いが荒くなってきた。
黒いカスが鋼の塊から表に浮いて出てくっ付いているので、細い鉄串を何本も束ねたハケのような道具で払い落した。同じ黒いカスが金床の周囲に飛び散っている。
イシク親方は「これでいい」と呟きながらナオトの方に向き直り、いままで使っていた鉄ばさみとテコを水に浸けて冷やし、そのまま渡してくれた。
「そのうちにきっと使うからこれは手元に置いておきなさい。鏨は新しく作っておく」
「ありがとうございます!」
鉄ばさみを手に取ってよく見ると、いままで使ってきたものとはまるで違う。
「先っぽが平らたくなっているのですね。それと、左右の二本がうまく揃うように柄が曲げてある。腕に感じる重みも違います。これで挟めるものは、重さも大きさも限られるのでは?」
ナオトが渡した鉄ばさみのところどころを指差しながら、イシクが続けた。
「その通りだ。他にも滑りにくいなど、いろいろと工夫がしてある。ここと、ここ。それに、ここも……。熱い鉄をうまく取り回すにはどれも大事だ。いま見せた折り返しはこれで挟んでやる。そして、折り返した後に水に浸ける。こうだ」
色が褪めてきて赤くなった金床の上の鋼の塊を鉄ばさみで掴み、ジュッと音をさせて桶の水に浸けた。
「うわっ!」
「火傷するなよ、ナオト。ここで目にするものはどれも、見掛けによらずこのように熱いといつも考えるよう、癖を付けるのだ。よいな」
「はい」
「この鋼を炉に戻して熱し、叩いて曲げてをあと九回やる。叩くときに出る黒いカスはこのハケできれいに掃いてやる。これを粘りが出てきたなと手と目で感じるまでやる。
だが、そこで止めてはだめだ。そう感じてからさらに二回は折り返す。いいか。これでいいと、数では決めるな。鉄をよく見て、聞いて、己の心に従うのだ。わかるか?」
「はい、それはわかります」
ナオトには、確かにわかっていた。それは、土器を炭火の側からいつ離すかを決めるときのやり方だった。火を見て、土の音を聞いて、最後は心に従って動く。だから、一度はじめてしまえば、頭で考えなくてもひとりでに先に進む。火は熱さと色でわかる。器の焼け具合は音でわかる。そして、心は自ずと動く。それと同じだと思った。
イシク親方は微かに笑っていた。しかしナオトには、その笑いの意味はわからなかった。
ニンシャの工人を束ねるイシク親方には、トゥバに残してきた父親以外に家族はいない。ともに働くニンシャ人が移ってきた当初に、イシクはとても気難しい人だとナオトは聞かされた。
「イシクは工人の中の工人だ。この窯場でやる仕事はどれもできる。それに誰よりも上手い。だが、一緒に働くとなると気難しいので大変だ」
しかしナオトには、なぜみながそのように言うのかわからなかった。イシク親方はナオトによく語り掛け、いつだって親身だった。
「この近くにはいい黒砂鉄がいくらでもある。他に、赤砂鉄も採れる。ここは土もいい。みな、お前が、お前のやり方で見つけておいてくれたものだ。
材料はある。だから、鉄で作るものはこの鉄囲炉裏でなんでも作れる。そのための工人も揃っている。
ナオト、もし要り用のものがあったらわしに言ってくれ。すぐに用意するから」
「親方、赤い砂鉄は何に使うのですか?」
「赤砂鉄か……。たとえば鍋にする。その金床もそうだ。溶かして、砂で作った型に流し込めばどんな形にもなる。わしらのような道具を作る鍛冶には、溶けやすく、使い途の多い赤砂鉄の方が黒砂鉄よりもむしろ大事だ。赤砂鉄を焼くときには鉄窯に少し細工がいる。こちらの作業もそのうちに見てみるか?」
「はい!」
ナオトは、イシクに教えてもらったことを鉄囲炉裏で実際にやらせてもらうことになった。イシクたちが焼いて鉄窯の外に引き出してある、人が寝転んだほどの大きさの黒いごつごつとした塊を、縁の方から小鎚で欠いて落とすことからはじめた。
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