『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[033]紀元前のハンカ湖
第2章 フヨの入り江のソグド商人
第4節 ハンカ湖周辺にいた人々
[033] ■1話 紀元前のハンカ湖
この物語の舞台の一つであるハンカ湖は、現在のロシア沿海地方、ウラジオストック北方の低地に広がる大きな湖である。
紀元前一千年紀の中頃、アムール川流域やハンカ湖の周辺には穀物の生育に適した温暖な土地が広がっていた。そこには、鼻が高く背も高い、鉄器を使うコーカソイド――白人――の人々が大勢住んでおり、漁労や牧畜を営み、オオムギなどの栽培もしていた。この、現代の文化人類学者が沿海地方で発見したクロウノフカ文化と呼ばれる初期鉄器文化の担い手は、どういう経緯と経路によってユーラシア大陸の東の端まで辿り着いたのだろうか?
その白い人々は、ロシアの研究者が指摘するように、中国最古の書物とされる『書経』に、周王朝の第二代成王――紀元前千二十一年没――が東夷を平定したときに祝意を述べに来たと記されている粛慎――この物語では息慎――であるかもしれない。
あるいは、その周の成王に討伐されたという東夷の末裔かもしれない。確かに東夷は、もとは山東半島付近にいて、寒さと乾燥に強い五穀を栽培していたと記録されている。
近頃公表されたDNA分析結果が示すように、この東夷と括られる人々のうちにはコーカソイドが含まれていた。
このことは、古代中国に周王朝が建つ前後に、その東夷の少なくとも一部が戦乱を避けて燕――現在の中国の北京を中心に、河北省北部を支配していた古代国家――との国境を越えて北に移動し、アムール川の中下流域およびハンカ湖周辺のクロウノフカ文化の担い手になった可能性を示しているともいえる。
古代中国、周王朝の諸侯国であり、下って春秋戦国時代には七雄の一つに数えられた斉は、紀元前十一世紀から同三世紀にかけて、山東省の臨淄――現在の淄博市――に都を置いていた。斉は羌族の国であり、この物語当時、人口は五十万人ほどだったと推定されている。
その南西には、同じ羌族の出身で、周王朝の礼制を定めたとされる周公旦――太公望――が紀元前十一世紀中葉に封じられた魯の国があった。古い礼制をまとめて儒教とし、後代に伝えた孔子は、この魯で生まれた。
現代。西暦二千年になって、この山東省の臨淄遺跡から出土して保管されていた古人骨と現代の淄博市に住む漢族の住民から得た遺伝子のミトコンドリアDNAを分析した結果を、東京大学の植田信太郎など六氏が連名で公表した。
この分析によると、約二千五百年前の春秋戦国時代の古代人と現代ヨーロッパ人類集団とは、遺伝的距離からみて近縁な関係を持っていた。
また、それよりも新しい約二千年前の古人骨の遺伝子はウイグルなどの現代中央アジア人類集団と非常に近く、一方、現代の淄博市住民の遺伝子はいまの東アジア人集団と変わらないという結果だった。
これら三つのDNAサンプルはそれぞれ、古代中国の東夷、同じく古代の斉にいた羌族、および現代の漢族のものと解釈できる。
この研究から、中国春秋時代にいまの山東省と江蘇省にいた東夷――種々の民族の混淆という意味で雑駁な集団であり、漢族から見れば異民族、すなわち東の夷――の中にはコーカソイドが混じっていたと想定していいと思う。
後の章で物語が繰り広げられるように、ここでは、ハンカ湖周辺にいたコーカソイドの人々はアルタイ山脈の北から長い年月を掛けて東に移動してきたサカ人の末裔と考える。
カスピ海や黒海の沿岸で遊牧国家を営み、紀元前六世紀にペルシャ王ダーラヤワウ――ダレイオス一世――を敗ったとして古代ギリシャの史家ヘロドトスが詳しく記したスキタイ人は、現代のイラン人――ペルシャ人――に繋がるとされるコーカソイドである。
その源流は、墳墓等から見つかった出土物の分析によって、いまでは、アルタイ山脈の北、もしくはバルハシ湖の北に広がるカザフ草原にあるのではないかと推定されている。
スキタイ人そのもの、またはその子孫であるサカ人は、そこからバイカル湖南岸を経由して黒い河――アムール川――流域にまで進出したと、ここでは考える。ヘロドトスの『歴史』の中にもサカイという呼び名でサカ人が現れる。このサカイは、スキタイのペルシャ側の呼び名だという。
もともと西にいたコーカソイドのサカ人が幅広い鉄の利用と、鍛造によって鉄製の利器を作る技術をバイカル湖岸とモンゴル高原に伝えた。それは、匈奴に追われて東に逃げ延びた騎馬の民である東胡――後に分かれて鮮卑――によってフヨの地に伝播した。
また、それとは別に、サカ人の異なる集団がさらに北回りの経路によってアムール川流域に鉄を伝え、後にはそれがクロウノフカ文化となり、フヨ北部に広がったとこの物語では考える。
紀元前一世紀。この物語でいう会所は、もともとその古の人々が集団で暮らしていたハンカ湖の岸に設けられていた。この湖畔の低木地帯に場所を定めての取引は、それまで数百年もの間、絶えることなく続けられてきた。
会所での第一の交易品は食料だった。アワ、ムギ、コメなどの穀類や、いろいろな背景を持つ遊牧民たちが持ち寄るヤギ、ヒツジ、馬、ウシ、ラクダなどの乳を加工した品々が取引された。それらは現代であればクリームやバターであり、また、ナチュラルチーズと分類される乳製品だった。
会所に持ち込まれるものには、他に、織物や毛皮でできた衣類、手袋や帽子、長靴、ヒツジの毛の叩き布――フェルト――、毛織物などがあった。
その後、石材や木材などの素材が取引されるようになり、それに木工製品、珍しい石や貝とそれを加工した宝飾品、土製や金属製の器や鍋、フヨで作られる鋼を用いた小刀や斧などの利器、そして後には武器が加わった。
多くは物と物との交換だったが、ソグド人や匈奴人が集まるようになって、銀や金を媒介した取引もはじまっていた。それを行う場所が、数十年前からカイショと呼び慣わされるようになったのである。
飲み物も取引された。
匈奴などの遊牧民の間にアイラグという飲料がある。満州語ではアルジャンと呼ぶという。現代において、漢字では馬乳酒と書くが、中国の漢代の史家はこれを酪漿と記している。飲み口はどうかといえば、いまのモンゴル人が言うように、「作ってすぐに、甘くして飲むなら乳酸飲料」と表現すればわかりやすいだろうか。
遊牧民の間でいまも普通に飲まれている馬乳酒は、本来は、ウシの皮で作った大きな袋に馬の乳を入れ、その上から何回も棒で叩いたり、ぶら下げて回転させたりして、撹拌して造る。
酒と書いてはあっても、その実は、アルコール度のごく低い腹持ちのする飲料である。
そのアイラグを年を経て保存し、古酒に変えると、まるで蒸留酒のようになるという。他にアルヒと呼ばれる度のきつい蒸留酒そのものもある。普段の飲み物としての馬乳酒も、ヒツジ、ウシ、ラクダの乳酒や穀類から作る酒も、会所で取引されていた。
この物語に現れる匈奴などの遊牧民は、草が茂る夏の間、主に乳製品を食して夕餉とする。
ただ、アウールルやシミーンなどの生チーズや、少し塩辛く保存しやすいエーデンやエーズギーを手に入れるのが難しいような状況においては、現代のモンゴル人の食習慣から推し量って、馬乳酒のみで済ますことも多かったであろうと想定し、これを含めて物語中では「食事」と記す。
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