『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[087]穆棱河(ムレンビラ)の岸
第4章 カケルの取引相手、匈奴
第3節 匈奴言葉の通詞、ドルジ
[087] ■3話 穆棱河の岸
何事もなく夜が明けた。北を流れるもう一つの川、穆棱河の岸に向けて、薄れていく川霧の中をロバ六頭の背に荷を載せて移動した。
手際よく進めたために、低い梢の上に日が昇りきる前に着いた。いろいろと気に掛けたが、結局、ここまで何も起きずに来た。
曲がりくねって流れる川の向こう岸に、ハヤテと匈奴の相手役とが一月前に話し合って決めた受け渡し場所が見えている。そこで、金と引き換えに荷を引き渡す。一月前と同じように水の量は少なく、荷は担いで渡れそうだ。
――この土地は開けている。突然襲われることはなさそうだ。
と、カケルは辺りを見回して思った。
今日から二日間、日が沈むまでそこで待つとあらかじめ取り決めた手前の岸からは、遠くまで見通すことができる。もし匈奴の隊が現れなければ、荷物は昨晩世話になった家に隠してもらう手筈になっている。
だが、ロバから荷を下ろす暇もないほど速やかに、川向こうのマツで覆われた小山の方に馬蹄の音がカツカツと響き渡った。まるでずっと見張っていたかのようだった。
やがて、七騎が砂塵を上げて現れ、川は浅いと見て取ったか、勢いよく渡ってきて横一列に並んだ。見事な統率だった。
みな、長い髪を頭の後ろに革紐で結っている。長くて厚い皮の衣を前で重ねて革帯で留め、膝のところまであるゆったりとした皮の長靴を革製の下穿きに被せて履いている。
――入り江の浜で見たあの四人と同じような皮の衣だ……。
川辺の湿った泥と砂のためだろう。進み出た黒い馬に乗る一騎を除いてみな、顔を土泥で汚し、茨で太ももが傷付いたり、泥で濡れて冷えたりするのを鹿皮の行縢を佩いて防いでいる。
その成り行きをナオトが食い入るように見ていた。
ハヤテとドルジとが一番前の騎兵と対面した。顔に横ざまに傷がある残忍な表情の異国人だった。顔付きとはまるで違い、人の話をよく聞くいい商人だという想像を働かせる者は、後ろに離れてじっと様子を窺っているカケル以外にはいない。
この見事な黒毛に乗る騎兵が、匈奴の東を支配している左賢王に従う百人隊長だった。
別の二騎が、少し遅れてカケルたち一行の背後から現れた。そのうちの一騎は、ハヤテのいつもの相手役だった。
カケルが後に知らされたところでは、黒い馬の隊長は、抜け目なく配下の二騎を川のこちら側の小高い山に物見に出した。カケルたちの列が白棱河の方角からやってくると見えたところで、物見はハヤテの顔形を見極め、烽火を上げた。それを確かめた上で、受け渡しの場所まで隊を率いてきたのだという。
ハヤテに呼ばれ、「匈奴の隊長だ」と知らされたカケルが黒毛の騎兵に顎を引いて一礼し、また、礼を返されたところで、別の三騎に護られた荷車が二台、大きな音を立てて対岸に着いた。みながそちらを向き、満足そうな顔を見せた。荷車を引いてきた馬を、それぞれの御者が落ち着かせようとしている。
いつの間にか馬から下りていた隊長が、皮衣の内側に下げた袋を引っ張り出して、中から小袋を二つ取り出し、無言でカケルに渡した。カケルの様子をじっと見た後に、ロバに載せたままの俵を指差し、初めて口を開いた。野太い声が辺りに響く。
「これで全部か?」
案内人のドルジがカケルの方を見てソグド語に直す。
「そうだ。コメが十六俵。フヨの鋼の板が四俵分ある。鋼は蓋を外した俵に四本づつ縛って詰め、隙間を枯れ草で埋めてある。合わせて二十俵だ」
と応えた。隊長がロバの列に向かい、もう一人がすぐ後に続いた。俵を一つ一つ改めはじめたのを見ると、カケルは受け取った小袋の一つをハヤテに渡し、残る一つの紐を解いて中身を確かめた。それを、呼び寄せたナオトに見せて、「どう思う?」と訊いた。
中に黄色い砂や粒が見える。しかし、どうと訊かれてもこれまで金など見たことのないナオトには応えようがない。黙っていると、絞って閉じて、袋ごとハヤテに渡した。
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