『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[054]ドルジの一族の物語
第3章 羌族のドルジ
第2節 山東半島の羌族
[054] ■1話 ドルジの一族の物語
川の中で倒れたドルジを岸まで引き摺って行って、肩を大きく揺さぶりながら声を掛けた。
「おい、ドルジ。大丈夫か? ドルジ!」
――水は呑んでいないようだ……。
ドルジの耳に、遠くでそう呼ぶ声が届いた。眠りから覚めるようにして目を開けると、そこにナオトの顔があった。
そのとき、戻り切らない意識の下でドルジは、なぜかはわからないが、八年前、明日には騎馬隊に入るという晩に、もう息子がここに戻ることはないと察した父が語ったことを、ナオトにそのまま話そうと思った。
「もう大丈夫だ。……。ナオト、お前に話しておきたいことがある。いままで誰にも話したことがない。長くなるが、いいか?」
青ざめていたドルジの顔色はすでに元に戻っている。腹の底から押し出したような声は小さいが、はっきりとしていた。首を回して不安げにしていた馬も、いまは岸に上がって何もなかったように草を食んでいる。わずかに戸惑いの色を見せたナオトだったが、しっかりと相手の目を見て言った。
「ドルジ。お前さえよければ吾れは構わない。聞かせてくれ」
「わかった。もうすでに話したこともあると思う。もし、話の途中にわからないことが出てきたら何でも訊いてくれ」
「ああ、そうする。その前に、衣が濡れたままだ。そこで乾かせ」
ナオトは、近くの大きな石に腰を下ろそうと促した。
「吾れはいまから二十四年前に斉の国で生まれた」
と言って、ドルジは話をはじめた。よく覚えていないのだがと、まず、頭に傷を負った戦いのことを話し、それに自らの一族についての話が続いた。
――さっき唸り声を上げたのは、その怪我をしたときのことを思い出したからだろうか……。
斉は周王朝の初めに山東半島を中心に羌族が建てた国とされる。太古の昔のことだ。斉の民は、平時には牧民として暮らし、事あるときには騎兵として戦った。ドルジの租先は、代々、斉軍の将軍として王に仕えてきた。斉の王家が替わっても、それは変わることがなかった。
百年ほど前、長く続いた斉は漢王朝の支配を受けるようになった。もとの斉国は破れ、ドルジの五代前の租は野に下った。
斉を治めるための封王として漢の皇帝が己の兄を送ってきたとき、自軍の捕虜が生き埋めにされたと聞いて前の斉王が勝つ見込みのない義のための戦いを仕掛け、都城が焼け落ちた後も騎馬隊を率いて戦い抜いた将軍が斉軍中にいたと知り、封王は強く心を動かされた。
腹心に命じてその元の将軍を牧野から探し出し、礼を尽くして、以後、領国を治めるために重く用いた。
その将軍が率いる傷だらけの甲胄を身に付けた部隊を自軍に迎え入れるとき、漢の封王は近衛の部隊を整列させ、その前で、直属軍である印として漢の色の赤を旗標に使うことを許した。
ドルジの祖父の代になると、しかし、黄海に面する山東の斉国は交易の要地であるとして、漢はここを直接に支配するために斉国とその封王を廃し、直轄の郡を置いて、その長である太守を送ってきた。
ドルジの祖父が斉国の復活を目指して奔走していた折り、着任したばかりの郡太守の親書を携えた使者が祖父のもとを訪れ、軍事の面で太守を補佐してはもらえないかと申し入れた。祖父をそれだけの力を持つ人物と認めてのことだった。
祖父にとってその申し入れに応じることは、将軍としての忠誠を斉国から漢帝国へと替えることを意味していた。斉国復興を願う祖父は、断れば漢の中央の不興を買うと知りながら、その場で太守の誘いを断った。
ところが、この話が郡の政庁内から漏れ伝わると、早々に漢に従い、郡制を固めて富国策を採るべきとする斉の内にある一派が、邪魔になる祖父を貶めるためにこれを使った。将軍は郡太守と裏で通じていて、斉郡を自らに都合のいいように利用しようとしているとの汚名を着せたのである。
「将軍とともに」と斉国再興を目指していた旧封王周辺の者たちは、情けなくも、これを信じた。
こうしてドルジの祖父は、元の封王の周辺をも敵に回したと知った。
少年の頃、祖父は漢の全土を巻き込んでの大乱と斉の臨淄城を守る戦いを目の当たりにしている。そして、戦いの末に起きた理不尽で凄惨な事の成り行きを父の傍らにあって最後まで見届けた。
――きっと同じことが繰り返される。わしが率いる騎馬隊に手を出すことはないだろう。しかし、わしの一家はこのままでは済むまい……。
第2節2話[055]へ
前の話[053]に戻る