『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[065]おっとっと
第3章 羌族のドルジ
第5節 アルマトゥから来た男
[065] ■1話 おっとっと
このところ、フヨの入り江では小雨が続いていて、じとじとと湿ったような感じがする。早朝、ヨーゼフの家を出て西の丘に上り、その奥に広がる小高い森を仰ぎ見た。南に目を遣ると、川を伝ってきた霧が海の方角に降りていくのが見えた。
――ここは漆塗りにはいいが、一年を通して器を焼くわけにはいかないな……。
ふと、ヒダカのことを思った。
――そういえば、そろそろカケルが戻る頃だ。海の上で雨に濡れては大変だな……。
カケルが戻ったら、あの、言葉がまるで通じない若者たちの後を追ってみるつもりだった。手を振って別れた、長い皮の衣をまとい、馬を引く者たちだ。
そのようなことを考えてぼんやりとしていたものか、「飲むか」というヨーゼフ爺さんの声が遠くで聞こえた。手渡してくれた椀に口を付けた。少し酸っぱいが、うまい。
「これは何ですか?」
「馬の乳から作ったアイラグをお湯で割ったものだ。遊牧民の飲み物だ」
話しながら自分の椀に注ごうとしていたヨーゼフの手元が狂い、左手にこぼしそうになった。「おっとっと」とどうにか避けた。ナオトは面白いと思った。
「いま、なんて言いました。おっとっと?」
「はて、そんなことを言ったか?」
「ええ、たったいま」
「んーっ。わしらの間では、ちょっと危ないなというときには咄嗟にそう言うかな」
「吾れは、初めて聞きました。おっとっと、か……」
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