『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[145]トゥバの原を駆ける
第6章 北の鉄窯を巡る旅
第6節 トゥバのニンシャ人たち
[145] ■2話 トゥバの原を駆ける
一方、エレグゼンとナオトは、タンヌオラの北の草原をオーログマレン川沿いに駆け回り、家族ごとにヒツジを追うトゥバ人の姿を探した。乳離れしてすぐに西のアルタイ方面に移ったエレグゼンには、初めて回るトゥバの地だった。
このところ乗っていた替えの馬は泊地に置いて、二人とも馬を元に戻して乗ってきた。エレグゼンを乗せて、広々とした大地で久しぶりに思い切り脚を使うゴウは、頭を下げ、厚い胸板を躍動させながら、わずかに上り下りする硬めの草地を後脚で蹴った。
騎乗するエレグゼンは左手に手綱を緩めに持ち、小枝を掴んだ右腕を曲げ伸ばししながら馬に合わせて動いている。黒毛のゴウは、いよいよ、先に先にと伸ばす前脚を弾ませた。
突然はじまった早駆けに驚いたナオトは、次第に離されながら、悠然と走りを楽しんでいるふうのシルから振り落とされないようにと、それだけを考えていた。シルに負担を掛けまいと体を立てて前方を見据え、手綱は両手で軽く握っている。速さに対する恐れが次第に募ってくる。
――シルに任せていればいい。
馬体が汗ばんでくるのを革の下穿きを通して太股で感じながら、そう思った。
やがて右手に、背の低い灌木の群れが増えてきた。その先に連なる山並みは、一面、マツで覆われている。先で待つエレグゼンにようやく追いついたナオトは、恐怖心から解き放たれてか、何らかかわりのないことを考えていた。
――ここにもマツとは不思議な気がする。
シルがゆったりとした歩みを止めると、隣りでゴウが尻尾を振りながらグルルルッと低い声で唸った。
山から流れ出る小川を渡るとき、踏む石が滑るためか、あるいは割れてしまうと察してか、シルが馬銜を噛んでナオトにそれを伝え、足元の平たい石を避けるようにした。よく見ると、昨日、二番目の小屋の棚に並んでいた石だった。
それで思い出した。それはヨーゼフが研ぎに使っていた石と同じものだった。くすんだ緑色の石はヒダカにもあるので見間違うことはない。ナオトは馬から下りて、昨日、棚にあったのと同じような形の石を慎重に選び、革帯に挟んだ。
草原をなお走ると、テュルク人の集団に行き当たった。たぶんトゥバ人ではない。被っている帽子でわかるという。声を掛けたが、ソグド語も匈奴の言葉も通じない。こうしたテュルク人がどこにでもいた。
川沿いに引き返してくると、エレグゼンの一族の言葉を使う家族に出会った。エレグゼンを知る者はなかったが、年配の男たちは亡くなった父のカーイとメナヒム伯父のことはよく覚えていた。エレグゼンは、まるで自分のふるさとに戻ったような気持ちになった。
その川岸から離れた少し高い土地に石と丸太の家が何軒か建っていた。形はウリエルの家のようだった。エレグゼンが振り返って、「ニンシャ人の家だ」と言った。家の前が畑のようになっていて、何かを育てている。
仕事する者たちの装いはこれまでに見たものとはまるで違っていた。青い帽子をかぶり、着ているものの袖と裾は匈奴のものよりも短い。
それに、何と言っても男の子の髪の結い方がそれまでナオトが見たことのない変わった形をしていた。長く伸ばした髪を頭の中央で左右に分け、両耳の辺りで束ねてから紐で輪のように結んでいる。
「エレグゼン、あれを見てみろ。子どもの頃にはお前もあの子のような形に髪を結っていたのか?」
「……」
ナオトがこれまで見てきたモンゴルは、どこも、生まれ育った北ヒダカでは見ることのない光景が広がる美しい土地だった。しかしその中でも、いまこうして馬で駆けている広やかな草原と、それを緩やかに包み込むように遠く南方に東と西に分かれて連なるタンヌオラ山脈はとりわけ美しいと感じた。
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