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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[135]フブスグル湖からソヨン山脈越えへ

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第3節 青い水のフブスグル湖

[135] ■2話 遠征十二日目 フブスグル湖からソヨン山脈越えへ
 湖畔での二回目の朝、ナオトに初めの晩のようなけだるい感じはなかった。昨日の休みでシルも勢いを取り戻した。湖の北の端を左に回り、今度はあの高い岩山を背にして湖の北岸を往く。水面みなもに、シラカバの白と木々の緑が鮮やかに映っていた。
 左手に湖面、右手には高い山並みが迫っている。「何か計略があるのではないか」と、ナオトの隣りを走るエレグゼンがぶつぶつ言っている。しばらくすると、両側に山が控える広い平地が現れた。
 食事はいつもの匈奴風だった。ナオトが首から下げたシカ革の袋には、今朝けさ、発つ前にバトゥが配ってくれたラクダの乳で作った少し固めのエーズギーとヒツジの干し肉が入っている。そこに手を突っ込んで、触れたものを三度、四度と口に運ぶ。小休止のときに水筒の水を一口、二口。これで終わりだ。

 昼前に、ハカスの二人が積石オボ―を見つけ、それを道標みちしるべに西の山合いに入って行くことになった。先頭を行く兵が馬を下りて山への登り口はここと見定め、積まれた石に向かって一礼した後にメナヒムのところに歩いてきた。ナオトはそのさまをじっと見ていた。
 ――前に、ドルジが言っていた通りだ。道標の積石に祈っている……。
「ここからソヨン山脈に入ります。目の前の山は丸い大きな輪のように連なっていて、その真ん中は広い盆地になっています。日が暮れる前にその盆地の北側まで進んで泊まり、明日は、その湿った土地を西に突っ切って輪の反対側の山に入ります。 
 山とはいっても、うまく選べば馬を下りて進むような岩場も上り下りもないので、高い丘のようなものです。そこを川に向かって下りて行って一日です。もし盆地がすべて浅い沼になっていれば少し遠回りしないといけないので、一日で向こう側の山を越えるのは難しいかもしれません。
 その山を下りたところにある川は、北から南へと流れています。それが、東と南から流れてくる別の二つの川と合わさってソヨンの山合いを真っすぐ西に流れ、タンヌオラ山脈の北の草原まで続いています。
 迷うことはないのですが、いつも水嵩かさが多く、ところどころ岩が邪魔になって進みにくいかもしれません。ここを越すのに二日近く掛かります。
 そのまま川の流れに沿って進めばそこでまた別の大きな川と合わさって、匈奴言葉でいうオーログマレン川になります。これは、ハカスの真ん中を流れるのと同じ水、そのはるか上流です」
「そのオーログマレン川のはじまるところがトゥバ盆地の東のはしということだな?」
「そうです。トゥバに入る手前で一度山が切れて、左手にタンヌオラ山脈が見えてきます。そこからは馬には走りやすい土地です。
 しかし、そこで渡るもう一本の川を北にさかのぼり、ソヨン山脈に分け入った北の森には匈奴に従っていない小さな部族のムラがいくつもあります。ですから、タンヌオラが見えた後には不用意に進んでは危ないと思います。そこを越すのに二日とみると、この先は急げば六日、ゆっくり行くならば七日というところです」
 と、いまでは統率者としてのメナヒムを信頼しているかに見えるキルギス兵が答えた。
「よくわかった」
 そう言ってメナヒムが頷いた。だが、若い案内兵が言ったオーログマレン川の上流、豊かな水の流れるバヤン川沿いの草原が、昔、自分が育ったところだとは敢えて口にしなかった。

 この若い騎兵のことがよほど気に入ったか、メナヒムには珍しく、右前をゆっくりと進むその兵に話し掛け、丁零テイレイの部族とかかわることになった事情を尋ねた。探るというのではなかったが、意図は明らかだった。この地に住むテュルク語を話す小部族間の交わりがどのようなものかを知ろうとしているのだ。
 そのハカス生まれの兵は、丁零にとついだ叔母を訪ねて行って、そのまま|北の湖バイガルの南岸に居ついたと言った。いま馬首を並べて走るもう一人の兵はそのとき一緒に丁零まで行った従弟いとこで、この道を通るときにはいつも連れ立つという。
 丁零人ははじめはとっつきにくいが、言葉は通じるし、みな親切だ。去るに去れなくなって冬を越した。しかし、あの氷で閉ざされる大きな湖の上を北から吹き降ろしてくる冬の風は、暖かいハカスで育った我らにはたまらなくつらいとこぼした。
 後ろで聞いていたエレグゼンがどうでもいいがという口調で問う。
「だが、いまでは丁零として暮らしている。なぜ春になってすぐに戻らなかった?」
「我らにもよくわからない……」
 と、従弟同士だという二人が答えた。顔を見合わせて笑っている。
 ――ふーん、女だな。だが、悪い奴らではないらしい。
 エレグゼンが呟いた。
 ハカスには、夏冬なつふゆ、牧地を移らずに定住している者も多い。みな、テュルク語を話す。匈奴はこれをキルギス人と一くくりにして呼ぶ。
 いま、テュルク=モンゴル語を話す部族に属する者は、たいてい、匈奴の国の北と西に分かれて遊牧生活を送っている。全く意味の違う言葉も多少は混じるが、こうした部族間では普通に話ができるという。丁零、トゥバ、ハカスのキルギスなど、テュルク族の間で行き来があるのは当然ともいえる。
「テュルク族は、もともとモンゴル高原に暮らしていた同じ部族だ。どれもモンゴル高原の国だ」
 と、その若いハカス生まれの兵が言った。
「村のおばばが精霊オンゴットに伺いを立てて、この先どちらへ行くかを決めるのもモンゴル高原の国々と同じだ」
 脇から従弟が口出しして笑った。
 メナヒムは真顔まがおで聞いていた。
「なるほど、その手もあるか……」

 後ろにいるナオトにはよく聞き取れなかった。しかし、
 ――テュルクの人々は、自分たちと違う言葉を話す匈奴を同族とみなしているのだろうか?
 と、ふと思った。何かを感じて後ろを振り向くと、バトゥと並んで最後尾を進むバフティヤールと目が合った。
 テュルク族の二人の案内兵はどちらもモングーシュという名だと言った。エレグゼンは驚いて、「あんたら、家族の名があるのか?」といた。
 ――匈奴に氏族の名はない。ハカスのキルギス人は違うのだろうか?
 案内の兵は、まるでそうかれるとわかっていたように、すぐに答えた。
「いいや、ない。しかし、家族の名のようにして、同じ名前を二つ目、三つ目として使う」
「ならば匈奴と同じだな……。だが、吾れには家族の名がある。レヴィというのだ。ハカスにもいるか?」
 エレグゼンはちょっと迷ったようにしてから問うた。
「レヴィか? ハカスではその名は聞いたことがないな……」
 若い兵が、別に興味もなさそうに応じた。
 遅れないようにとすぐ後ろに付いていたナオトはこれを聞いて、
 ――エレグゼンの家族の名はレヴィというのか。ヨーゼフの話に一度出てきたような気がするが、どうだったろう……。
 と思い、心に留めた。ヒダカびとにも一族の名を持つ者がある。

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