『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[148]荒れ野での狩り
第6章 北の鉄窯を巡る旅
第7節 タンヌオラからオヴス湖へ
[148] ■3話 遠征25日目 荒れ野での狩り
海かと思えるほどに大きな湖の岸から西に離れてゆっくりと進んでいるとき、四方に目を配っていたエレグゼンがはるか西の山の端を指差し、「野羊だ」と声を上げた。アルタイの山並みを背景に、確かに、青い空と黄色い土の間を黒っぽい影が群れをなして動いている。エレグゼンは狩りをしようという仕草をした。
先を急ぐはずのメナヒムたち五騎だったが、糧食が底を突き掛けていた。そこで、狩りをすることになった。ナオトにはちょっと考えにくいことだったが、匈奴にとってはごく自然なことらしい。狩って、捌いて、炙って、食らう。一部は塩をして持ち去る。それはまた、いつはじまるか知れない戦いへの備えだという。
広い草原に馬を走らせるのも備え。アルガリに矢を射て仕留め、気持ちを張っておくのも備え。胃を満たし、放った矢を集めて研ぎ直しておくのも戦いへの備えなのだ。
エレグゼンは、騎乗の長旅に飽いて尻がむずむずしていたようで、メナヒムがそうと指図するやゴウの腹を軽く蹴って走り出し、すぐに視界から消えた。バフティヤールとバトゥが遅れまいと追う。
見送ったナオトは馬を下りて、乾いた草を集め、乗ってきた斑馬をごしごしと円を描くように擦りはじめた。いつものように頸から胸、背から胴の下、脚と続けた。斑が終わるとメナヒムの馬を、それが終わると替えのシルともう一頭をと、同じ動きを続けた。
待つ間、どの馬も草を見つけてはもぐもぐと口を動かしている。ただ、シルだけは頸を伸ばしてずっとそこに佇み、ナオトを見つめていた。木陰の岩に腰を下ろしたメナヒムが、その様子をじっと見ていた。
春から初夏にかけて、この盆地一帯を砂嵐が襲う。地上にあるもののすべてが運び去られる。山に遮られて、この辺りでは西の沙漠ほどにひどくはないものの、それでもひとたび砂塵をともなう大風が来れば、馬を下りて伏し、耐えるしかない。
西北から吹く風は、先ほどに比べてだいぶ強くなっていた。シャーァと、砂と砂とが擦れ合うような音がする。それがゴォーという風の音に混じって辺り一帯を覆っている。空の色が、なぜか赤みを帯びてきた。
エレグゼンたちはまだ戻らない。メナヒムは、じっと西の方角を視界に捉えたまま動かない。ナオトは少し心配になってきた。
岩山の陰に回っていたことが幸いした。どうにかやり過ごして、去ったばかりの砂嵐を目で追っていると、やがて、曲った角を付けたアルガリを一頭、バトゥの馬の後ろに積んで、石だらけの原を三騎揃って戻ってきた。アルガリの腹の部分をくるんだ叩き布に血が滲んで見える。
狩りの興奮がそうさせるのか、まだ吹き残る強い風の中で、どの顔も晴れ晴れとしていた。風が運んだ小石に打たれたか、バフティヤールの額に一筋、血の跡があった。
日が中天に昇るまではまだ間がある。
「砂嵐のあとは寒くなる。火を熾して、鍋に水を少し」
珍しくメナヒムがナオトに指示した。聞いていたバトゥが、こちらを使えとばかりに替えの馬の背に掛けた大きなヘーベ――運び具――から鉄鍋を取り出した。
大きな朽ちかけの木が転がっていたので、二本転がしてきて風を遮るようにして並べ、その上にバトゥの鉄鍋を置いた。メナヒムが拳半分ほどの丸い石を何個か拾い、手で拭ってから火の中に投げ入れた。
勢いよく燃やそうにも、乾燥してくしゃくしゃに丸まった草と小枝しかない。エレグゼンがそれを察し、見つけた太い枝をバトゥから借りた手斧で割って持ってきた。
水筒から移した少しの水がなかなか熱くならない。メナヒムが先ほどの石をいくつか火の中からほじくり出し、灰を払ってから、まだ温い鉄鍋の真ん中にそろりと滑らせた。
その傍らでは右手に小刀を握ったバトゥが、角のあるアルガリの首と爪先をすべて落とし、皮と肉の間に指を指し入れて皮を剥ぎはじめた。ところどころに矢の刺さった跡があった。それと、アルガリの腹に小刀で割いた跡が見える。隣りでエレグゼンが言った。
「狩ってすぐに、バトゥが小刀で開いた腹の中に手を突っ込んで大動脈を切り、心の臓を取り出してある。だから、大地を血で汚してはいない。嵐が来たので解体を途中で止めて岩陰に隠れた。臓腑を大地に返してから、急いで戻ってきた」
いくつか知らない言葉が混じり、何を言っているのか、ナオトにはよく掴めなかった。
――いまはその続きをやっているということだろうか?
剥ぎ終えた皮を地面に広げ、肉の大きな塊をその皮の上に据えて手際よく切り分け出した。二つの後脚を外してたっぷりと塩を塗り、割いた叩き布で巻いて替えにしているシルの背のヘーベに麻紐で結わえ付けた。
手捌きがあまりに見事なので、ナオトはこらえられなくなって訊いた。
「バトゥはどんな獣でもあんなふうにできるのか?」
「動くものならなんでも皮を剥ぎ、肉を捌く。どんなときでも、その場を血で汚すことはない。バトゥに勝る者を吾れは見たことがない」
エレグゼンが応えた。
その後にバトゥは、手斧で断った両肩の肉の塊に塩を擦り込んでよく揉むと、火の側に抛った。待っていたメナヒムが、付いた砂を払い、ほどよい大きさに切りながら鍋に入れる。だいぶ沸いてきた湯にアルガリの血が赤く混じる。
バトゥがあばらを切り離した骨付きの部分を一抱え持って火に近づいてきて、小刀で切り分けながらぐつぐつ煮えはじめた鍋に無造作に落としていった。腹から取った脂身は火に入れる。
革袋からつまんで取り出した臭いのきつい何かの根っこを一つ、指でひねりつぶして鍋に入れ、片手に握った塩を味見もせずにいい加減にぶち込んで、待つ。ナオトは感心して見ていた。
――こうして煮るのか……。
鍋の水が底をついて焦げはじめるかというときに、バトゥが手を延ばして一つ摘み、一瞬、「あちっ」という顔を見せ、吹いて口に運ぶ。「んんぅ」と唸ると、みなを眺め回した。もう食えるということらしい。みなが同じように手を延ばしてかぶりつき、骨を周囲に散らかして全部腹に収めた。辺りに、焦げた脂の匂いが漂う。
鍋一つ分では全く足りず、結局、三度煮た。これまで口にした匈奴の食事の中でこれほどうまいものは食ったことがないと、ナオトは思った。
「若いので肉が柔らかい。しかし、狩ってすぐではなぁ。かといって、待つわけにもいかない。まさか持ってはいけないしなぁ」
手指と口の周りを脂で汚しながら、隣りで、エレグゼンがなおもぶつぶつと何か口にしている。ずいぶんと後になってからナオトが尋ねると、「おお、あれか。あのとき口にしていたのは神への感謝の言葉だ」と平然と答えた。
その昼下がり、オヴス湖の西岸をさらに南へと進んだ。見えてはいないが、同じ湖がずっと南まで続いているという。ナオトにとってはこれまでで一番大きな湖だった。
二日掛かってようやく湖から遠ざかると、川が見えてきた。その川を渡った草の原で、メナヒムが右の拳を上げて止れと命じ、馬の疲れを感じ取ったのか、少し早めの休みを取った。日は、まだ梢の上にある。
「あの水は飲むな。辛い」
メナヒムが短く言った。
「よい兵士は水の良し悪しを知る」
エレグゼンがどこかで聞かされた話をナオトに囁いた。
ここはもう、右賢王の支配する地だった。メナヒムがこの地を去ったのはずいぶんと前になる。二代前の単于に召され、その王庭に向かうときだ。いま同行しているバトゥ、それに幼いエレグゼンとバフティヤールも一緒だった。
ここから先は、しばらく乾いた平原が続く。よく知る土地だったが、メナヒムは記憶を確かめながら慎重に進路を決め、泊地を選んだ。
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