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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[048]フヨの窯元、柳の里へ

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第9節 柳の里の窯元
 
[048] ■1話 フヨの窯元、柳の里へ
 フヨの入り江に戻る小舟の中で、この後どうしたいかという話になり、翌朝、西にあるという窯場に向けて発つことをハヤテに許してもらった。
「それならば、今晩はヨーゼフのところに泊った方がいいだろう」
 と、ハヤテが言うので蔵に向かった。

 次の朝。
 背負子しょいこ一つを肩に掛けてナオトは西に旅立った。都まで交易の品を納めに行く者を介して、ヨーゼフが窯元に話を通してくれていた。フヨの入り江の近くでは一番大きな、いい陶器を焼く窯だという。
「お前の脚ならば、西に一日走ると大きな川に出合う。南に向かって流れている豆満江トゥメンウラだ。その川沿いに遡り、なお半日進むと、北から来る別の川が合わさるところに出る。
 そこにある渡し場では、西に渡ろうとみなが待っている。お前は、それには構わず、その二番目の川の岸を流れとは逆に北に向かうのだ。その川の東の山合いに柳の里という窯場がある。石を積んだ目印が見えたら曲がり、細い道を少し山に入ったところだ。豆満江に出てからは急がずに一日。道を過つことはない」
 ヨーゼフに礼を言って、ナオトは蔵の前の道をゆっくりと歩き出した。

 川沿いに走り、いくつも丘を越えた。カケルの舟から見えた目印の山が右手に見えている。ここまで西に来るのは初めてだった。左手に岩山が連なり、その向こうにははるか彼方まで草原が広がっていて、ところどころ低く黒いマツの森に覆われている。
 少し来ただけなのに、この辺りは人の顔付きも家の造りも、フヨの入り江とはずいぶん違っていた。少し急ぎ過ぎたらしく、まだ日が高いうちに大きな川に出た。南に向かって流れている。
 ――豆満江トゥメンウラだ……。
 このまま進んでもよかったが、すると、途中で日が暮れる。ナオトは川に入って体を洗い、川の側に寝転がって朝を待つことにした。知らない土地なので、ヘビはいないかと少し気になった。

 翌未明。川に沿って歩きはじめ、昼前に人里を過ぎて渡し場に着いた。
 ――少し早かったか。
 と、しばらく休むことにし、ヨーゼフが持たせてくれたヌーンをかじった。
 行き交う人々を目で追っては、どういう装いで、どこまで行くのかと思いを巡らせる。渡しの舟を待つ者は多く、そうやって岸の堤に腰を下ろしてじっと眺めていても誰も怪しむことがない。
 その昼過ぎ、人が歩いたとどうにか見分けられる川沿いの小径を走った。
 柳の里の境を示すらしい石積みを見つけて曲がり、山道に入る。出会った幾人かの里人が、流れ者かというようにいぶかしそうな目線を送り、しかし、目は合わせないようにしている。
 しばらく行くと、いくつか家が集まる開けた土地に出た。
「窯元までの道筋は?」
 入り江を出る前に覚えたフヨの言葉二、三語を、ヨーゼフの名前を出して尋ねた途端に、里人たちが周りに集まってきた。これまでに見たフヨの人よりも、着ているものの丈も袖も短い。口々に話す言葉の意味は全くわからなかった。
「こんにちは。どこから来た?」
 年配の女が片言のソグド語で訊いた。
「フヨの入り江」
「東の入り江か?」
「そうです、たぶん。ここから二日ほど東に行った大きな湊です」
 知っているソグド語を並べると、その女がみなに告げた。なぜか、そこにいた者たちが声を上げて笑った。
 その陶器の里は、徐々にせりあがっていく小山の一角を切り開いたような作りになっていた。麓から続く道の両側に家々が立ち並んでいる。山の中にしては大きな里だった。

 坂を上り詰めたところに粘土の採取場のような山肌が見える。その手前に、煙が五、六本上がっている。そちらを見遣ると、誰かが道に出て、こちらに向かって手を挙げている。つえを支えに往来みちに出たようだ。
 ――れですか?
 そういう気持ちで鼻先を指差すと、その男が遠くで二度頷くのが見えた。周囲のみなが杖の男を振り向き、音も立てずに退いて行った。
 ナオトは、通りの左右に目を配りながら急ぎ足で坂道を上って行った。
 家の作りは様々だった。腕回りほどの太さの木の柱を支えに、それよりも細い木を横向きに何かの木の皮を幾重にも巻いて結び付け、乾燥させて束ねた背の高い草をその細木に垂らして覆いにしている家がある。
 少し掘って屋根をかけ、杉皮でいた上に土を置く家もある。これは北ヒダカの善知鳥の家の作りと似ている。それに混じって、ヨーゼフの蔵と同じように木と石と日干し煉瓦で作った家が坂道の両側にいくつか見えた。
 坂の上で振り返ると、右の奥に光る川が見える。
 ――流れが細い。今朝見た川ではないな……。
 ここに来る途中、川近くの畑に穂を摘んだ後のヒエか何かの枯れた茎が並んでいた。暮らし向きはヒダカと同じようなものだと、そのときナオトは思った。
 住まいに案内しながら、杖の老人は窯元のアンだと名乗り、ヨーゼフとは長い付き合いだと付け加えた。聞き取りやすいソグド語だった。
 他の里人とは違い、軽くて暖かそうな赤褐色の長い服と、その下にはぶかぶかと大きくて長い黒の下穿きを着て、黒い沓を履いている。これまでに見たフヨ人とは装いが違っていた。
「あなたはヒダカのナオトですな?」
「そうです。昨日、東の入り江のヨーゼフのところを発って来ました」
 老人は少し微笑んでうんうんというように頷いた。
「ここはフヨの国の東、プルハトンの里です」

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