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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[152]エレグゼンが語る烏孫
第6章 北の鉄窯を巡る旅
第9節 アルタイを越える
[152] ■2話 エレグゼンが語る烏孫
だいぶ下ったところで、少しゆとりができたのか、ナオトが訊いた。
「エレグゼン、烏孫とは何だ?」
尾根はすぐそこに見えている。灌木の間を、馬の脚を傷つけないようにと気を付けながら引いて歩む二人は、ようやくその一帯から抜け出ようとしていた。
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「烏孫は我らと同じ遊牧民だ。偉大な冒頓単于と同じテュルク族だ。だが、我ら匈奴のようにモンゴル族と親しく交わるということがない」
もとは匈奴とともに牧地にヒツジを追い、戦場では先陣を争う仲だったという。しかし、冒頓単于の後を継いだ老上単于が亡くなったときに、許されて匈奴のもとを去り、ジュンガル盆地を越えて、イリ川が流れる辺り、その南にある山に囲まれた土地に落ち着いた。
「もともとそこには老上単于に討たれて西に逃げた月氏がいた。北の湖に向かうときに、道々、話しただろう? 烏孫はその月氏を逐って支配地を奪ったのだ。烏孫は強い部族だからな。
そこには、イシク・クル湖という不思議な湖があるそうだ。烏孫は湖の近くに城を築いてその王庭から湖の東西を支配しはじめた。その頃の右賢王の支配地からみて早馬を乗り継いで十日も西に行ったところだ。
烏孫は、いまではイリ川流域の支配を固めて、ジュンガルからアルタイ山脈の西麓までを窺っているという。そこは烏孫にとって、部族がはじまった父祖の地なのだ」
「烏孫は、匈奴と同じようにして戦うのか?」
「そうだ、同じだ。男だけでなく、女も戦さに出る。それも匈奴と同じだ。しかし、いまの王のもとで、力は匈奴よりも上かもしれない。昔の匈奴のように、烏孫には鉄の掟で固められた規律が残っている……。だから吾れらは、烏孫とは出会いたくない」
「……」
「その烏孫が支配するイシク・クル湖から西に行ったところにはソグド人が多く住んでいる。ソグディアナというのだ。お前が行きたいと言っているのはそこに違いない」
「イリ川の流域とその西のソグディアナ……。フヨの海際に住むヨーゼフもソグディアナのことを話してくれた。一度は行ってみたいところだ」
「イリには内湖が多いと聞く。それらの湖に注ぐ川の水の豊かさから、周りにある国々の収穫物も、そこから上がる税も多い。そうした豊かな小国が集まっているところを、いまは烏孫が支配している。
イリまでは遠すぎて無理だが、いま吾れらが向かっているハミルはイリに近い。その先のソグディアナに行くときに避けては通れない町だ」
ハミルに向かっていると初めて聞かされて、ナオトは「なぜだ?」というような表情を見せ、そして思わずヒダカ語で「ありがとう」と言った。
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