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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[216]草原を行く

終章 別れのとき
第4節 草原の別れ

[216] ■2話 草原を行く
「お前と初めて会った日、お前の後ろに神様がいると言ったのを覚えているか?」
「ああ、覚えている。何を馬鹿なと、吾れはソグド語で答えた」
「そうだったな。ヒダカに神様はいるのか?」
「ああ、いる。ヒダカの神様はどこにでもいる。もしヒダカびとがみな消え去っても、神様だけはその場にずっと居続ける」
匈奴キョウドにも神様がいる。あそこに見える大きな木は神様だ。戦いの神もいる。だが、一番大事なのは日の神だ。いま後ろの山の上に出たあれだ。匈奴の単于ゼンウは、毎朝、日を拝む。それに、自分の子に日を追う王と名付けることもある。それほどに日の光は大事だ」
「……」
「お前は、その、大事な日が昇る国から来た。そしていつか、その国に帰る……」
 そのときようやく、息を切らしたザヤが丘の上に姿を現わした。手綱を握ったまま息を弾ませる胸元に、きらっと、烏孫ウソンの緑色の石飾りが光った。

 馬の色が見分けられないほど遠くに去ったところで、ナオトが振り向いた。草原に生きる匈奴の生娘きむすめの目は、その瞬間を見逃さなかった。前もって二人で決めてあったかのように、ザヤは手に握って用意していた土鈴を三回、カランカランカラーンと鳴らした。その鈴の音は、夏の朝靄あさもやをついて、それを作った者の耳に届いただろうか。
 ザヤがそう思うと同時に、前に向き直ってシルをゆっくりと歩ませていたナオトが右腕を高く差し上げた。
 自分でもそうとは気付かずに、ザヤは「バイルターイ!」と大きな声で叫んでいた。

 従兄のエレグゼンに促されて、ザヤは夏の牧地の境まで退き、やがて、馬上に背筋をぴんと伸ばし、営地を目指して駆けはじめた。
 ――いとしいナオトは西に行く。そしていつか戻ってくる。わたしのナオト……。
 気を落とし、馬のくびに寄り掛かるようにしてようやく進んでいるのはその従兄の方だった。それを察したものか、ゴウはあるじを振り落とすことのないようにと足元を確かめながら、脚の運びを徐々に速めた。
 追っ手の五騎は、すでに追うのをやめていた。「深追いはするな」と言われていたバトゥは、どう話すかと考えながら来た道をゆっくりと引き返した。
 ――次の二十四ちょううかがうメナヒム隊長のことだ。何か考えがあるに違いない。

「どうだ、馬は勢いを取り戻したか?」
 メナヒムは牧場まきばで、次の戦さに使えそうな馬はと、バフティヤールに数えさせていた。そろそろ、昇る陽が東の峰を離れる頃合いだった。しかしメナヒムは、馬の世話とは全く別のことを考えていた。
 ――ナオトはきっと西に行く。トゥバから戻るときの話をエレグゼンから聞いて、わしはそう確信した。ならば、このまま行かせればいい。あの剣を作る技を失うのはいかにも惜しい。だが、ナオトがエレグゼンを裏切ることはない。そもそも利を求めないのだから、ナオトには裏切りということがない。
 いまは、望む通りにイリやバクトリアに向かわせればいい。きっと、昔、わしがザヤに話して聞かせた通りになる。いい馬は、別のいい馬を見つけて連れ戻る。それは、西に住むいろいろな技をもつ別の男かもしれない。連れてくるのが女ということになったら、ザヤには可哀そうだが、まあ、それも運命さだめということだ。
 だからバトゥには、深追いはするなと言った。バトゥの曖昧な追跡から逃げおおせるほどでなければ、このモンゴルの地で死んでしまっても仕方がない。それだけの男だったということだ。だが、バトゥに『死ぬか生きるか、どこまでも追え!』とでも命じない限り、あのナオトのことだ、きっと逃げ切る。

 エレグゼンが牧地を示す最後の積石オボ―を回った。前を行くザヤは、やや高くなったところに馬を止めて待ち、はるか西の方を見遣っている。これほど開けた草原なのに、丘に遮られてナオトの姿は見えない。

 モンゴル高原の夏の空は青く、高い。その下を、次第に勢いを増した一騎がどこまでも駆けて行った。

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