『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[112]友が語る今と昔の匈奴の鉄
第5章 モンゴル高原
第6節 鉄囲炉裏
[112] ■2話 友が語るいまと昔の匈奴の鉄
ぽつぽつと部族のゲルが見えはじめた辺りでエレグゼンが言った。
「敵の漢人は、我ら匈奴が鉄を作っているとは知らない」
一緒に鳥狩りに出たバフティヤールとムンフは思い思いの方角に分かれて去り、いまでは二騎並んでゆっくりと歩いている。
「お前は何も知らないという顔をしていろ。そうしないと殺される。それほどに鉄作りは大事で、外に漏れることのないよう厳しく守ってきた秘め事なのだ。鉄作りが漢に知られればきっと襲撃されると丁零族の者は信じている。だから、それを見た他所者は殺すと、匈奴と丁零の間で取り決めてあるのだ」
「そもそも吾れは、何も知らない。それは本当のことだ」
「しかし、お前はその場所と囲炉裏場近くの様子を見た。それは知っていると同じことだ」
「お前は、吾れが土器を作るのを知っている。作るところを見てもいる。焼き上がったばかりの皿や鈴を手にしたこともある。それでもお前は土器を作ることはできない。見たことをそのままできるというのは、思い上がった考えだ」
「そうはいっても、今日吾れたちが見た丘の向こうで鉄を作る丁零族の者たちは見逃してはくれない。お前の首を刎ねようとする」
「……」
「そういうことだ。何しろ、鉄がかかわっているのだからな」
「そういうものか……」
「そうなのだ。戦さは鉄で決まる。それに、鉄を作る丁零は、言葉は通じても、真の匈奴ではない」
「……?」
「北の湖の湖畔から無理やり連れてこられた奴隷のようなものだ。しかしあいつらは奴隷どころか、鉄作りを人質にしているので、言えば何でも通ると思っている。しかも、実際にその通りなのだ。鉄はそれほどに大事だ。やつらがお前を見つけ出して殺せと言えば、我らの左賢王は迷わずそうするだろう」
――北の湖から連れてこられた? そうか、丁零は北の湖の湖畔に住むのか……。
エレグゼンの話を聞いていて、ナオトは、あのぴんと張り詰めたようなハンカ湖の北での鉄と黄金との受け渡しの様子をまざまざと思い起こしていた。
――そうなのだ……。あの匈奴の騎馬隊長にとってフヨの鉄は、カケルが運んできたヒダカのコメに劣らず大事なものだったのだ。
「そのように大事な鉄ならば、なぜ己らで作らない?」
「……。匈奴は、もとは鉄を作っていた。百年以上も前のことだ。作りはじめたのは漢よりも早いという。漢という国など、その頃はまだなかった。漢人が黄河と呼ぶ大きな川のことは聞いたことがあるか?」
「ここから東に歩いて二十日ほどのところにある土色の水が流れる川は見た」
「その川ならば吾れも見たことがある。だが、あれではない。あれはフヨ人が松花江と呼ぶ川だ。他に黒い河という黒い水の川もある。どちらも大きな川だが、それよりも何倍も大きな黄色い水の川が沙漠の南を流れているのだ」
「そんなに大きい川か。では、渡れないだろう?」
「黄河が海に注ぐ辺りでは、舟がなければ渡れないという。馬は川を泳ぐが、とてもだめだ。途中で力尽きて溺れ死んでしまう。川の幅が広すぎて向こう岸がまるで見えないそうだ。そういう吾れもまだ見たことがない」
「その大きな黄色の川がどうしたのだ?」
「我ら匈奴の先祖は、もともと、その黄河のはるか上流の、流れが速くてもっと幅の狭い辺りに暮らしていたのだ。その地を我らはオルドスと呼ぶ。西、北、東と三方を黄河で囲まれている土地だ」
「なんだと? 三つの方角を同じ川が流れるなどと、そのようなことがあるのか?」
「ある。黄河は広いオルドス地方の周りを左に右にと大きく四回曲っているのだ」
「……?」
「その黄河に三方を囲まれた土地で、匈奴は鉄を作りはじめた。その前には銅と錫を合わせた青銅という金属を使っていたが、北から鉄が伝わってきて換えたのだ。銅と違って、鉄にする岩や砂はどこにでもあるからだという」
「伝わったとはどういうことだ?」
「北にいたサカ人のやり方を真似たと聞いている」
――サカ人? フヨでドルジが話していた西から馬に乗ってやって来た人々だ……。
「北のテュルク族が鉄の剣を持ってきて、オルドスの匈奴と闘った。青銅の剣と……。青銅は重くて脆い。突くにはいいが、うまく斬れない。それに、刃がすぐに欠ける。
鉄を鍛えて作る鋼の剣と打ち合うと、青銅の剣の刃には凹みができ、三度打てば折れるそうだ。それでは戦いにならない。戦場で打ち合えないとは、つまり、死ぬということだ。それは大事だぞ」
「……。鉄作りをなんとか近くで見てみたいものだ」
「お前は先刻、見るだけでは何もわからないと言ったぞ」
「そうだ、言った。しかし、見ることからはじまるとも言える。前に、水汲みに使う袋作りを見せてもらった。覚えているか?」
「ああ、覚えている。こんなところを見て何が面白いのかと、女たちが笑っていた。それがどうした?」
「馬の尿袋を洗って使うなど、吾れには思いも寄らなかった。見せてもらって初めて、何を材料にして、どう作ればいいのかがわかる」
「……。そういうものか?」
「ああ。ものづくりとはそういうことなのだ」
――ハヤテが話していたハンカ湖の会所近くの鍛冶場を、あの後、カケルたちは見に行ったのだろうか?
見損ねたことをナオトは悔やんだが、それをエレグゼンには話さなかった。
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